感覚と認識をずらすということ。
【パレートの法則】
パレートの法則は多岐に渡ってあらゆる分野で地脈にように染み渡り、大変に普及している考えの一種です。
パレートの法則は、働きアリの法則と同じ意味合いで使用されることが多く、組織全体の2割程の要人が大部分の利益をもたらしており、そしてその2割の要人が間引かれると、残り8割の中の2割がまた大部分の利益をもたらすようになるというものである。
経済以外にも自然現象や社会現象など、さまざまな事例に当て嵌められることが多い。
ただし、パレートの法則の多くは、法則と言うよりもいわゆる経験則の類である。自然現象や社会現象は決して平均的ではなく、ばらつきや偏りが存在し、それを集約すると一部が全体に大きな影響を持っていることが多い、というごく当たり前の現象をパレートの法則の名を借りて補強している場合が少なくない。
「8割2割」「勝ち組は少数」「世界の支配層は2割程度の人間」
といった具合で実に易い言葉で普及していますね。
事実、
・ビジネス書
・営業シーン
・既得権益
等の説明をする上で凡そ殆どの方が当たり前の様に使役している発想の一種であり、ビジネスシーンや学術シーンではパレートの法則を引用する機会は相応にして散見されます。
ですが、その殆どの場合は実に抽象的で当たり障りのない持論や価値観を
押し付ける範疇に留まり実用的な生活面で思考に結び付く方は殆どといっていい程恐らくいないのではないでしょうか。
【ターゲット・パーソン】
本項では
パレートの法則自体に対する理論的解釈ではなく、
「感覚」と「認識」をパレートの法則に紐づけることにより
発想の転換を促し、思考の角度引いては心の感度に価値を還元する事に主眼を置いています。
よって
・手法やノウハウに妄執的に固執していらっしゃる方
・自己価値を低く見積もっていらっしゃる方
・奇抜な発想や頭/心の角度を欲していらっしゃる方
に向けて綴っています。
【執筆に当たっての想ひ】
今回の内容はあくまでも
わたくし個人が境涯の中で培ってきた断片的な一部に過ぎません。
よって
・他者を糾弾したり否定すること
・自己価値観の正当化
・解釈の押し付け
といったことは本懐ではなく、またする気もありません。
わたくしという個人の一部分だと存じた上で自己の都合のよろしいよう
使役なさってください。
【上級者と同じ導を辿る事が「目的」ではない】
これから自分が全く未開の業種、趣味や娯楽に興じる時
大抵の人物から一度は
「上級者と同じことを繰り返しなさい。実行しなさい。」
と言われた経験があるのではないでしょうか。
生涯の中で一度は同じようなニュアンスで話をされた事があるかと思います。
実に在り来たりで至極簡潔な趣旨ですが、これではいはいと
皆が理解し変革に勤しめていたとしたら私達の社会は今頃より繁栄の栄華を誇っていたでしょう。
わたしが言うまでもありませんが
大前提として、十人十色という言葉があるように皆が皆
・向き/不向きが異なります
・好き/嫌いが異なります
・得意/不得意が異なります
よって上記のような人括りに纏めた発言というのは
良い意味でも悪い意味でも私達一人一人の「個」を否定し、
蔑ろにする。
酷く抽象的で中身のない言葉であると形容出来るでしょう。
【「個」に変換し、最適化する】
・向き/不向きが異なります
・好き/嫌いが異なります
・得意/不得意が異なります
先に述べた言葉です。これらを想起した上で
・有象無象
・万物
・学問
に当てはめてイメージしてみましょう。過去を振り返ってみましょう。
自分の歩みを顧みましょう。
どれも同じことが言えるのではないでしょうか。
つまり本来であれば卓越した上級者の行動を模倣するということは
ただの付け焼刃の範疇であることが殆どです。
経験によっては自己に順応した部分もあるかもしれませんが
それはほんの一握りの割合であり、たまたま当時の自己に高く順応しただけに過ぎないことは生きてきた時間の中で深く理解を示していることでしょう。
目下のところ卓越した上級者の行いをただひたすらに模倣するのでなく、
わたし達は一人一人の「個」に標準を合わせ、
「変換」し、「最適化」する必要があります。
そこで密接に関わってくる部分こそ、冒頭にある
「感覚」と「認識」が深く、大きく、起因してくるわけです。
【感覚と認識と「脳死」】
ではここでいう「感覚」と「認識」がどうして大切なのでしょう。
巷ではパレートの法則を引き合いに出す事で
実に抽象的に世の中の比率を
8割/2割といった簡潔なもので区別しすぎた弊害の結果、
着眼点や疑問点を彷彿とさせないある種の「脳死」のようなバイアス
を生み出しています。
よって、2割といった特定分野での上級者に酔狂することはあっても
実際に眼前で捉えているのはリザルトといった「結果」の部分にのみ
固執し、プロセス即ち「過程」の部分に興味や関心を抱く人間は
往々にして稀有な傾向にあります。
今日の世界が情報社会、価値至上主義とはよくいったものですが
・大抵のケース
・大抵の分野
・大抵の事象
の場合、情報そのものを蓄積することで比例するように
価値やキャリアを高めるといった普遍的価値観は偶像に過ぎず、
根本、大前提としてパレートで言うところの
8割の人間が持つ共通した「認識」や「感覚」を併用していない。
ことこそに、残りの2割側が8割側とは大変に大きく異なった側面を兼ね備えていることに帰結します。
8割の人間とは異なった「認識」や「感覚」で世界を見据えた上での
情報の蓄積に価値や色見がより重厚に帯びていくのです。
また、これらはわたくし個人の生涯の中の経験則の一環ですが
こういった「感覚」と「認識」も
1.元々他者の大多数とそれている方
2.自分自身の人間の一部として大多数を同じ因子を持っていることを自覚しながらそれを意図的に使用しない方
の二種類に区分され、あらゆる分野を問いません。
つまり後天的であれ先天的であれ
わたくし達一人一人の心の使い方次第で
変容を促せることを示唆しているのです。
【ズラす。向き合う。許容する。】
文中の中で
・2割の8割の人間が大きく異なるのは「感覚」や「認識」の部分だということ
・心の使い方次第で変容を促せること
を綴ってきました。ではどうやってズラしていけばいいでしょうか
わたくしを例に挙げて枚挙してみます。
=====
自分が未開の分野を開拓する場合、
自分が8割側の人間か2割側の人間かを識別する必要性は感じていません。
着目すべきところはその分野の2割側の人間の
・思考回路
・価値観や概念
と言った内面の、根源たる人間性の部分に焦点を充てていきます。
転じて「感覚」や「認識」に焦点を充てていきます。
そしてその答え(概念)に行きつくに当たった過程に着目し、
その個人が大多数の他者(8割)と何が異なるのかを
思考していきます。
ここで重要なのはその個人の社会的立ち位置や経済的価値では
測れない、
その個人が「非凡と評される側面とそうではない側面にピントをずらさずに充てる」ということです。
そうして俯瞰的にあらゆる側面から捉える事で
・良い側面
・悪い側面
が如実に表層化していきます。
つまり、自分自身が
・取り入れたい部分/真似をしたい部分
・よろしくない部分/自分の方が秀でている部分
識別するということです。そしてその客観的な結果を許容するということです。
側面毎に観測するということは
その個人の特徴を理解する。つまり「感覚」や「認識」を理解するといった概念に通じていきます。
【個/側面という概念】
意図的に差異を生み出すことにより
その個人との感覚や認識の違いが浮き彫りになっていきます。
万物が全て師になっていく。ということになっていくわけですね。
長く生き永らえてもいないわたくしがこんなことを言うのも烏滸がましいはなしではありますが、
どれだけパレートで2割と8割で区分しようとも、また別の側面でも同じようにパレートで区分けされます。
どれだけ殊勝であっても必ず劣る部分はありますし
どれだけ困窮していても非凡な側面は必ずあります。
だからこそ、人間一人一人の「存在」を8割/2割といった比率で捉え
蔑ろにし目を瞑るのではなく
「側面毎」にパレートを引用し見据え、他者の「感覚」や「認識」を項目毎に理解し自己に取り入れて磨き上げていくことで
より他人にそして自分に優しくなれるのではないでしょうか。
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