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中身のない言葉

はじめに

僕が小学校低学年の頃に近所に住んでいた子が晩にうちに来たことがあります。はっきとは覚えていませんが夜の7時を回っていたと思います。小学校低学年の僕からすると夜の7時は非常に遅い時間でした。今はそんなことはありません。その子がうちに来た理由は、どういうわけか家に入れなかったので友達の家を回っていたと思います。その時に僕が母親に「○○くん、家に入れへんし、可哀想やからうちにしばらくいてもらおう」と言いました。多分、数時間ぐらいはうちにいたと思います。その子が返ってから母親に「可哀想って思ったり、言ったりするのは悪いこととは言わんけど、あまりそういうことを口にせんほうがいい。そういう気持ちは相手を見下していることがあるから注意して」と言われました。当時の僕はまったくわかりませんでした。「可哀想」という言葉の持つ二面性について書いていきます。


不用意な憐憫や同情は侮蔑?

「可哀想」という言葉は相手に寄りそう言葉でありながら、相手を見下す言葉でもあり、諸刃の剣とも言えます。言葉だけでそれを区別することは非常に難しいです。しかし、言っている人の行動から寄り添っているのか侮蔑しているのかわかります。寄り添っているのであれば、前述のように手を差し伸べます。貧困層を救済するのあれば、ボランティアに参加したり、その活動を行っている団体に寄付をしたりするはずです。何らかの形で、協力をするはずです。侮蔑している場合は、単に声を大きくして叫ぶだけです。それでほとぼりが冷めれば次の話題に飛びつくだけです。相手のことを考えているか、そうでないかがよくわかると思います。
母親のその言葉が20年近く経って思い出したのは、何かに反対している左派が「弱者を守れ!虐げられるのは可哀想だ」と言っているのを最近よく見るからです。彼らは弱者を助けろと言う割には救済手段を示すことなく、「守れ」の一点張りです。これでは何のために叫んでいるのかわかりません。本当に守ろうとする人は現時点である救済手段を示します。この点が非常におかしな点です。彼らがしていることは「弱者を守れと言っていれば、形になるだろう」といった発想で、本当に弱者を守るつもりはありません。むしろ、吊るし上げるような方法で、醜悪極まりない行為です。
母親の言葉に当てはめると、彼らの弱者=可哀想な存在と決めつけているところが単なる侮辱でしかありません。すなわち、左派にとって弱者は踏み台であり、搾取すべき相手だと思っているのでしょう。左派のように何かを焚きつけるような人たちのせいで本当に助けを求めている人が声を上げにくくなっているのも現状です。本来はそういった人に手を差し伸べるのが、本当の役目ですが。そういった人たちに救いの手を差し伸べるはずですが、手は伸びていません。いや、はなから伸ばしていません。
何かを焚きつけるような人は同情や憐憫を誘って、支持を集めようとしています。彼らの矢印は自分たちに向いているだけで相手には向いていません。ドラマで善人のような人が極悪人だったという設定がよくあります。まさしく、その設定です。そういう人たちが言っていることを本当に信じて支持している人がいるのも事実ですが、それを焚きつけている人には同情や憐憫で自分たちが注目されればいいと思っています。シロアリと同じで次から次へと食い荒らします。Fさんの動画でイナゴ人間というシリーズがあります。その内容がまさしくそういった人たちの話です。

相手に寄り添う気持ちがあれば、本当に守りたい相手を傷つけるような行動を取るはずがありません。ドイツにいたときにシリア難民のボランティアをしている友達がいてその友達の手伝いをしたこともあり、社会人になってから、ボランティア団体に寄付をしています。服を集めて、発展途上国に送っている団体にいらなくなった服を寄付することもあります。確かに、親切心に漬け込み、私腹を肥やす人がいるのも事実で、そういった行為が偽善と思われてしまうことも事実です。しかし、それでも相手に寄り添う気持ちがあれば、絶対に自分にできることを探してやるはずです。可哀想のような言葉に大切なのは相手に寄り添う気持ちで言葉だけが一人歩きするようなことがあってはなりません。



最後に

先日、廃案になった入管法改正の時にも触れましたが、なんでも人権問題にすれば、深刻な事態になっているような錯覚に陥ります。僕のフォロワーさんの庵忠茂作さんがそういった言葉で思考停止に陥る危険性について書かれています。

反対派は法律を盾にもっともらしく言いますが、結論は可哀想だからになることが多いです。可哀想だからということで同情を買い、憐憫を誘う手法です。そういった問題が注目されていないから注目させてやっているんだといったような少し上から目線になっていることが多いです。これでは相手に寄り添っていないですよね。本当に寄り添うのであれば、「可哀想だから」は結論ではなく、一過程です。その状況をどう改善させるかを考え、行動するはずです。それが実際に活動することであったり、活動するだけの時間や体力がないから寄付をするといった行動であったりします。寄付をするだけの行為を「お金で解決しようとするのは卑しい。本当に救いたければ、実際に活動に参加しろ」と言う人がいます。お金は大事な資源です。お金がなければ、救済活動もできません。そういったことを言われたくがないために寄付が嫌厭されるようになるのは本末転倒です。そういったもっともらしく聞こえるような言葉が本当に守るべき相手を傷つけているのです。相手を思いやる言葉に気持ちが伴っていないと意味がありません。こういったことができないと人として道を踏み外すことになるでしょう。


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