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動物好きと子ども好きについて ~人間対人間~

前回「動物好きと子ども好きについて ~性格ステータスの数値化~」の続きである。


実際のところ、僕はどうか。
子ども好きかと問われたら、なんとも言えない。


甥っ子や姪っ子は心底可愛い。だが他人の子に対してそこまで愛着を持ったりしないかもしれない。もっと言うならば、子どもなら誰でも可愛いという感覚はない。他人の子でもコミュニケーションをとることにより可愛いと思うことは大いにあり得る。しかし、誰でも彼でもと言うわけにはいかない。
それを卑劣というならば僕は卑劣なのかもしれない。でも嘘はつきたくないし、正直なところだ。


僕の未熟な点は子どもに対して接し方が下手なところだ。どのような距離感で接すればいいのかまだ分かっていない。それは僕が兄弟の中で末っ子だからかもしれない。幼い頃近所で自分より年下の子と接する機会が少なかったからかもしれない。
どうしても「大人 対 子ども」ではなく「人間 対 人間」になるのだ。


それは動物でもそうだった。


僕は猫が好きだ。実家の近くには野良猫がいっぱいいたし、時々母から雑魚をもらい餌をあげたりしていた。でも猫を飼った経験はないし、ただ見ているだけの存在だった。

高校を卒業と同時に実家を離れ猫を見る機会は随分と減った。そして23歳の時、当時バンドを組んでいたメンバーと三人でルームシェアをした。
ルームシェアをしたと同時にメンバーの一人である長井くんが小さな猫を拾ってきた。
それはそれはとても小さくて尻尾の短い産まれたての仔猫だった。僕はニケと名付けた。

初めて飼うペットで僕は上手く接することができなかった。
猫が好きだったのにも関わらず、あろうことか猫に人見知りしていたのだ。そしてニケと接する姿を誰かに見られたくなかった。
ぎこちなく接する姿をメンバーに見られるのが恥ずかしかったのだ。メンバー内で猫を飼った経験がある雅くんは上手にニケと遊んでいる。僕は雅くんを真似た。
雅くんや長井くんはニケに対して「人間 対 ペット」の関係で接していた。それに対して僕は「僕 対 ニケ」だった。
人間という立場から猫に手を差し伸べることができなかった。

「僕 対 雅くん」「僕 対 長井くん」と同様に「僕 対 ニケ」であった。だからもっと素直に接さなければいけないと思った。
俯瞰ではなく、同じ立場に降りなければならない。素直な自分をメンバーに見られるのが恥ずかしかった。
僕は人見知りをしながらもニケと距離を縮めた。と思っている。僕は初めて暮らす土地で、初めての共同生活。それはニケも同じだった。心境を重ねることによって心を開くことができた。


僕が子どもに対して上手く接することができないのもそういうことだと思う。それは僕の中で「大人 対 子ども」ではなく「僕 対 〇〇ちゃん(個人名)」なのだ。だから同じ立場に降りなければならない。そのためには素直にならなければならない。素直になるためには自分に「心の余裕」がなければならない。
僕は「心の余裕」がなかった。「心の余裕」がないと子どもや動物といった「弱い対象」に対して心を開くことができない。

「弱い対象」という言葉が勘に触るがそれは言い換えようのない事実だ。生後まもない子と数十年生きてきた人間とはできることに大きな差がある。しかし、そこに手を差し伸べる時「大人 対 子ども」の関係性があざとく見えることに気持ち悪さがあったのだ。

ただ僕が子どもの立場になった時。
「子ども 対 大人」だろうが「僕 対 〇〇(個人名)」だろうが、優しくしてくれる人であれば嬉しいのだ。

散々こねくり回した結果、動物好きと子ども好きはやはり優しい人なのだ。
一般論に抗うつもりが、一周回って正当化したのだ。まあこれもこれで良しとしよう。

以上、「動物好きと子ども好き」の性格ステータスの数値化編と人間対人間編の二回に渡ってたどり着いた考察である。


次回は「1600について」

乞うご期待。


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