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鉛筆について

忘れられない名前がある。

忘れたくても忘れない名前と言えば大袈裟だろうか。

忘れられない名前というよりは忘れない名前である。

それは、バイト夜勤前に会いに行った誰かさんではなく、親切にしてもらったのに裏切った誰かでもなく、「ここで辞めたらこの先も諦め続けるよ」と言ってくれた誰かのことでもない。

ただ僕が一方的に知っている名前。

そう、それは「ポディマ・ハッタヤ」さんだ。

僕は鉛筆について考えるとき会った事もない彼を思い出す。

思い出すと言っても顔は思い出せない。ただただ彼の名を思い出す。

ポディマさんとはカンボジアで鉛筆の芯となる黒鉛を掘っている人なのだ。黒鉛を掘っているという表現で正しいのだろうか疑問だが、僕の知識で説明できる表現はこれぐらいだ。

彼は小学校四年頃の国語の授業で説明文の中に出てきた。
内容としてはハッタヤさんの生活と仕事ぶりに関しての説明文だったと思う。「今、私たちが使っている鉛筆の背景には黒鉛を掘ってくれている彼らの仕事があってこそだよ」ということがテーマだったのだろう。

なんしか、僕はそれ以来鉛筆について考えるときポディマさんを思い出すようになった。

鉛筆を使う時、ポディマさんを思い出すという行為は脳科学でいうところのエピソード記憶にあたる。

記憶には短期記憶と長期記憶がある。

長期記憶の中でもあるものを見た時や、あることをした時に紐付けして思い出される記憶をエピソード記憶という。

普段思い出さないことでも、久しぶりに訪れた場所に行った時、「ここであの人と喧嘩したなぁー」とかある曲を聞いた時、「あの頃部活頑張ってたなぁー」と数珠繋ぎに記憶が思い出されるのがエピソード記憶だ。

昨今では鉛筆はおろか、文字を書くという行為自体が減ってきた。

エッセイを書く時はキーボードを打つし、何かアイディアを書き留めるのも常時持ち歩いている携帯の方が利便性がいい。筆記具とメモを持ち歩く習慣がないし、何しろ荷物がかさばる。文字を書くことは脳への刺激になって良いこともあると聞くが、脳への良いことは他のことで補おうと思う。筆記具を使うのに便利と感じる時は曲を作る時ぐらいだ。

その唯一の曲を作る時でも鉛筆は使わない。
わざわざ消せる鉛筆ではなく、ボールペンを使う。それは消す必要がない行為だからだ。思いついたアイディアを取りこぼさなくて済む。

シャーペンは一応持っているが上記の理由からあまり使用しない。

となると鉛筆を使う時など今ではほとんどない。

小学校の頃は書写の授業があったため、5Bや6Bなどと様々な種類を持っていた。
6Bなんて無茶苦茶濃いのだ。忘れた日には購買で買わされたりもした。

あの鉛筆たちはどこに行ったのだろうか。

鉛筆を使うことがなくなった今、ハッタヤさんを思い出すことがなくなった。
エピソード記憶で紐付けされることがなくなったのだ。

もし、あなたが鉛筆を使う時があったらこれはハッタヤさんが掘った黒鉛によってできた芯だなと感じて欲しい。そうすればあなたの脳にも鉛筆=ハッタヤさんというエピソード記憶が出来上がるのだ。

最後になったが映画で登場人物をファーストネームで言ったり、ラストネームで言われたりすると話がついていけなくなるのは私だけでしょうか。

ポディマ・ハッタヤさんの名を借りて今回、そんな意地悪もしてみた。


次回「髪染めについて」


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