ありがとうについて
いただきます。
食事をするときに使う言葉。
この言葉を使う意として「命をささげてくれた生き物に感謝する」や「作ってくれた人に感謝する」である。
しかし、これは強いて理由をあげるならばである。
毎度毎度、意識して言っているわけじゃなく習慣化された言葉として使っている。
それでも僕はこの「いただきます」という言葉を使っている人には好感をもてる。
それがどんなにぶっきらぼうに言おうが、どんなにテンプレートとして使って言おうがである。
この感覚は何も「いただきます」だけじゃない。「ありがとう」にも同じことが言える。
「ごめんなさい」は多用すると損をする場合があるが、「ありがとう」は多用しても相手が嫌な気が起こすことはない。
些細なことで「ごめんなさい」という人がいる。あれは言えばいうほどマイナス効果になる。
なぜなら「ごめんなさい」は相手の気持ちをおもんぱかる言葉だからだ。
こんなことをして気を悪くしたよな、だから謝るよ。ということだ。
しかし、相手からしたら、「いやいや、オレはそんなに器量が小さい人間じゃないぜ。オレをみくびりやがったな、こんちくしょう」と思う場合もある。
つまり、謝るということは相手の器を見限った行為なのだ。だからごめんなさいは多用するとうっとおしくなる。そんなことで謝るなと。もちろんその人との人間関係の度合いにもよるが。
初対面の人と10年来の友人とでは許容の範囲が違う。
それに比べて「ありがとう」はどうだろうか。
「ありがとう」は些細なことでも言いすぎて困ることはない。相手の許容に左右されないし、自分が感謝しているという表現に他者が介入する余地はないのだ。
だからできるだけ、「ありがとう」を使うようにしている。
そして、「ごめん」と詫びを入れる前にできるだけ「ありがとう」に変換できる内容かを考えてから発言するようにしている。
「迎えに来てくれてごめん」ではなく「迎えに来てくれてありがとう」
「手伝ってくれてごめん」ではなく「手伝ってくれてありがとう」なのだ。
だから当然、食事をするときも「命を捧げてくれてごめん」ではなく「命を捧げてくれてありがとう」なのだ。
言い換えるだけでなんとも清々しくなるし、これを言っている人はとてもいいやつに見える。
エレベーターに乗る。
他の乗客がいるのにも関わらず意に反してオナラをしてしまうときがある。
そんなとき僕はこう思うのだ。
オナラをしてごめん。ではなくオナラの匂いを嗅いでくれてありがとう。
半径3メートル以内の世界を大切にしよう。
僕はこんな風にして日常を生きている。
次回は最終回「日常の中の日常について」
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