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風呂について
最近は専ら湯船に浸かる回数が増えた。
今までは夏だろうと冬だろうとシャワーだけで済ますことが多かった。
それは10代の頃実家に住んでいたときもそうだった。
実家では年がら年中湯船を張っているのだけれど、どうにもこうにも湯船に浸かるのが面倒だった。
湯船に浸かることがリラックスであるとも思えなかったし、そもそも小学生の頃は風呂自体が入るのがとてつもなく面倒だった。
小学生の頃は毎日風呂に入った記憶などない。
昨日入ったからいいや。なんてことはよくあった。
「毎日風呂に入るのは日本人ぐらいなものだよ。」
なんて声も聞こえてきそうだが、ここは日本だ。
毎日入るのが常識な国で毎日入らなかった僕はマイノリティだ。
そもそもなぜ毎日入らなかったかと言うと前述した通り面倒だったのはもちろんだが、入らなくても平気だったのだ。
今となっては毎日入らないと気持ち悪い。これは毎日入るという習慣が身についただけでは無い。単純に大人の方が汚いから毎日入らざるを得ないのだ。
年々、顔は脂っこくなっていく。
小学生の時分であれば肌は潤い、すべすべなのだ。
そうしていつしか、毎日風呂に入らなければならなくなり、終いには湯船にまで浸かり出すようになった。
湯船否定派だったのにも関わらず、一度その習慣を受け入れてしまったらこれがないと駄目になってしまうから不思議だ。
湯船に浸かるきっかけは、はっきりしないが浸かった方が実は気持ちいいということに気づいたからだ。
なんの捻りもない答えでがっかりして欲しくないのだが本当のことだから仕方がない。
もう少し深く言うならば、好きな理由というよりは嫌いな理由がないのだ。
面倒な気持ちは未だに少しあるが、それよりもリラックスできるというメリットの方が大きい。
それ故、湯船に浸かることが多くなった。
嫌いなことよりも好きなことが多い世界の方が、より人生は素晴らしい。
「風呂」という日常から人生に繋げるのは飛躍しているようにも聞こえるがこれはあながち間違いでもないのではないか。
単純に好きなことを増やす瞬間よりも、嫌いなものが好きになる瞬間の方が人間としての器が大きくなる。
なぜならそれは自分の否を認めることになるからだ。
その行為にはパワーがいるし、何よりも素直にならなければならない。
素直になることは恥ずかしいが、その行動によって自分の年輪を一つ増やすことができる。
そう考えれば人でも物でも今まで嫌いと思っていたものって本当に嫌いなものかどうかが怪しくなってくる。
初めてニルヴァーナを聞いた時。僕は受け入れられなかった。
とても陰鬱だったし、今まで僕が今まで聞いた音楽とは違っていたから拒否反応を起こしたのだ。。
しかし、それが数年後改めて聞いたらめちゃくちゃカッコいいのではないかと思った。
初めてニルヴァーナを聞いたときは自分の中で異質が入ってきたと思い到底受け入れられなかった。それが歳を重ねて他の音楽を聞いたり人生経験を増やすことによって受け入れる態勢になれたのだ。
高校の時にできた友人もそうで、第一印象こそ苦手だと感じていた人がとても仲のいい友人の一人になった。
そんなこんなで嫌いな線引きはあまり意味がないと思っている。
当然、苦手な人や物はある。
でもそれは、ただ「今」じゃないだけではないか。
いつか「そのとき」が来たらそいつは人生の中で掛け替えのない、無くてはならない存在になっているかもしれない。
実はビールがあまり好きではなかった。
しかし、いつしかビールも僕の中で無くてはならない存在になっている。
風呂あがりにビールを飲む。
これがまたとてつもなく旨い。
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