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1600について

「1600」と聞いて何を思い浮かぶだろうか。

400×4と考えれば勘づく人もいるだろうか。

400×4。つまりは原稿用紙4枚分。
そう、1600とは文字数のことでエッセイに最適な文字数なのだ。

1000字では少ない。しかし3000字ともなれば読む時間や場所を選ばなければならない。
なんにも一分間で文字を読める平均文字数は400字程度とだそうだ。
つまりは3000字を超えるような文章は「その文章を読むための時間」を確保しなければならない。

文字数の多い文章を嫌っているわけではない。カジュアルな文章、隙間時間に読んでもらうことを考えればやはり1600字程度がちょうど良い加減であると思う。
それ故3000字を超える文章は「読むための時間」を確保しなければならない。

これはエッセイである。「日常の中の日常」なのだ。
日常の中の隙間時間、例えばトイレで用を足している時、煙草に火をつけた時、ホームで電車が来るまでの間のどうしようもない時間にリラックスして読んでいただけるのがエッセイであると思っている。
「読むための時間」の文章の場合は寝る前や仕事前、仕事後などの5~10分程度の時間を頂かなければならない。
その場合はエッセイではなくコラムというカテゴリーに分類させ文章を綴ろうと思う。

僕は活字が好きだ。
しかし自分が読む立場の時、数千字に渡るエッセイなど読む気がしない。
「何か特筆すべき情報」なら何万字だろうと読むが、されどエッセイを読むのにそれほどの時間を費やしたくはない。

それはエッセイというカテゴリーを卑下しているのではなくて、そもそもの目的が違うのだ。
「何か特筆すべき情報」とは、「一ヶ月で副業30万稼ぐ方法」とか、「必ず商談が上手くいく心理術」といった所謂有益な情報である。
それに対しエッセイとは自由に書いた散文であり、そこには正しいもへったくれもない。

一つのエンターテイメントだ。
自分とは違った視点で、少しクスリと笑えたら心がほぐせる。良くも悪くもそれぐらいのものだ。

なので、今更ではあるが「日常の中の日常」では1600字程度というルールを組み込みたいと思う。
散々2000字を超える文章を書いたのにも関わらず、本当に今更だと思う。しかしこれこそが人間味でありAIにはできないエンターテイメントだ。

書き慣れていくと1600字とは大した長さではない。うだうだグダグダ、あーだこーだ書いていたらあっという間だ。

しかしながら、原稿用紙4枚分だと思うと随分多い文字数だと思う。
それは小学生の頃、読書感想文を書いた記憶が根強く残っているからだろう。

夏休みの宿題で必ずと言っていいほどラスボス化していた存在「読書感想文」だ。

学年により、何枚程度と制限があった。
三枚半以上と制限があった時、なかなか文字数を稼ぐことができずに三枚半と一行だけ書いたこと。三枚目の半分まで書いたこと(三枚目の半分とはつまり二枚半なのだが都合のいいように捉えてトボけていた)、何度も改行をし三枚半にしたこと。

そんな記憶が数知れない。しかし、今では当たり前かのように四枚程度の文章を書いている。

それは鉛筆ではなく、キーボードに変わったからかもしれない。エッセイという自由作文になったからかもしれない。どちらにせよ、こんなどうしようもない文章を書くことは割と気持ちがいいのだ。文章を起こすということは一つのブレインダンプなのだ。

書きたいことを頭の中で考えた文章よりも、書きながら勝手に手が動いてくれるぐらいの感覚の方が気持ちがいい。その作業に向いているのが鉛筆ではなくキーボードなのかもしれない。漢字の予測変換をしてくれるパソコンの方が勝手が良いのだ。

度々自分ルールを破る「君野ユウ」だが今回ぐらいは守りたい。「1600」というタイトルをつけたからには、1600字丁度で締めることができればこれ幸いである。

こんなに文字カウントを気にしたことは初めてだ。


次回は「敬語について」


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