エッセイを書くこと
エッセイを書こう。
いや、エッセイを書くと友人に宣言をした。
小説でもなく、詩でもない。
エッセイ。
開口一番、彼は
「エッセイってなに?」と聞いてきた。
僕は考える。彼はエッセイを知らないのではなくて、きっと僕がどう答えるかを試しているのだと。
なので僕は頭の中で伝わりやすく相手が唸らざるを得ない言葉を取捨選択して選りすぐる。
「エッセイは随筆のことだよ。」
恐る恐る口にしたのがバレバレである。僕が捻り出した答えはただの言い換えであり、無難に綺麗に収まったかに見えたが中身はスカスカである。
友人は当たり前のように、また意地悪く
「随筆ってなに?」と問うてきたのである。
「随筆は日常に思っていることを自由に書くことだよ」
と伝えた。
彼は腑に落ち、そこでその話題は終了となった。
しかし、今度は腑に落ちなかったのが僕である。
僕は友人と別れ、自宅に帰った今、その答えを考えている。
それは彼が言わなかった言葉。
「自由に書くってなに?」
「自由ってなに?」
彼が言わなかった言葉が、彼が言うはずだったセリフが僕の頭に移転して残響する。
「自由に書くとは。」
ではエッセイではなくて小説は自由ではないのか。
いや、自由である。出版社、あるいは第三者から
「今回はこのテーマでお願いします。」
なんて依頼を受けたらそこに少なからずの制約が入る。制約が入ると「縛り」ができる。
「縛り」ができると「不自由」が生じる。
「青春ラブストーリー」と依頼されればそれに見合った作品を作らなければならない。
しかし、「青春」と言う言葉の捉え方もまちまちである。
中高生を青春とも言えるし、人によっては50代に入ってから訪れるかもしれない。
ラブストーリーもしかり、男女間とも限らないし、人間同士とも限らない。
一見、制約をつけることによって不自由さが訪れる感覚になるが、その「縛り」の範囲内で自由に動き回ることができる。
自由とはまさにそういうものである。
「自由に書く」と言っても「書く」という行為はしなければならないという制約が入る。
ただそれは日本語じゃないかもしれないし、地球語でなくてもいいのかもしれない。
そもそも先ほどから「書く」と言いながら僕はキーボードを叩いている。
このキーボードを叩くということも「書く」にあたることは皆さんも承知の上でわざわざ揚げ足をとって突っ込む人などいない。いたら僕はそいつを面倒臭いと思う。僕はどちらかというとそういった奴にあたる「そいつ」だが。
この「書く」≒「キーボードを打つ、叩く」は言葉の変遷と捉えて良いのだろうか。
僕は今このどうしようもない散文を書いている。
エッセイとは「日常の自由を書く」という比較的ルールの無いものである。
しかし、このルールの無いルールの中でも頭の中で「あのテーマはそぐわない」とか「あのテーマは書きたくない」だのと自分の中でルールを作る。
「自由」という言葉が頭を真っ白にする。
英語が話せるという人に誰かが興味本位で何か適当に喋ってみてとお願いするシーンを見たことがあるが、その時は大抵困った顔をする。
そこで英語で自己紹介をしてみてと伝えるとその人は流暢に喋る。
自由という言葉は思考を不自由にさせるし、制約があると破りたくなる。
僕が好きなことは与えられた自由の中で、自分なりのルールを作る。
その中で自由に動き回ること。
この文章の中で何回「自由」を書いたのかなと思う。
自分ルールの中に同じワードを多用することはできるだけ避けていたのだがこれは仕方のないこと。
時々ルールを破ることも君野ユウのルールブックには書いてある。
自由がゲシュタルト崩壊しかけたところで今日のこの駄文を終えたいと思う。
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