母とは共依存関係にありました。
私は5人兄弟の中で唯一女性として生まれ、母自身もまた4人兄弟の中で唯一女性という境遇で育ち、女の子を産みたいという思いは強かったようです。4番目にして私が生まれましたが、私が幼少期の頃の母は忙しく、あまりゆっくり話す機会などもなく、仲はさほど良くなかった覚えがあります。
それが私が思春期に入るとよく話すようになり、喧嘩もよくしましたが、悩み多き年頃の私にとって、ポジティブ思考の母の考え方は大いに助けになりました。
私が当時ひきこもっていたのもあり、母が唯一自分の理解者だと感じるようになった私は、どんどん母に依存していきました。そして依存される母も、いつまでも弱く頼りない私を見ていて、心配で仕方がなかったのだと思います。そうやって私たちは共依存関係になりました。

共依存関係は私の弟が自死するまで続きました。
弟が自死し、母は憔悴し、私は母を支えようとしましたが、母は私と決別することを選びました。
母の「ひとりになりたい」という気持ち。
私たちの共依存関係を終わらせてくれたのは、弟だったと言っても過言ではないのでしょう。

弟と私と兄の1人は発達障害でした。
母はずっと発達障害の子ども3人を1人で抱え、家庭に干渉せず子どもに虐待まがいのことをする父から3人を守るために家を出て借家で生活をしていました。
毎日朝5時から力仕事。昼はごはんを作りに一瞬家に帰ってきて、また仕事へ出かけます。夜は銭湯で翌1時まで仕事。家へ帰ると3人の子どもが暴れていたり、母に甘えるために暴れ出したり、喧嘩をしていたり。そんな生活が10年ほど続きました。

周囲の人たちは親族でさえも心無い言葉を母に投げかけたと言います。おまえが甘やかしすぎたんだとか、育て方が悪かったんだとか。そんな批判も母だけが一身に受けていました。
そんな中での、弟の自死。
私は母の背中をずっと見ながら一緒に生きてきました。
私が悩んで泣いている時は、隣で優しい言葉をかけてくれたこと。どんな状況でも味方でいてくれたこと。他の兄弟には内緒ねと言って、私をカフェに連れて行ってくれたこと。
1日中、毎日仕事、疲れて帰ってくる最中に見る夜の田んぼの中を走る電車がきれいで大好きだと教えてくれたこと。
私は母が大好きで、尊敬していました。共依存になって苦しめるはずじゃなかったけれども、それでも一緒に過ごせた時間は宝物です。
母は私が産まれた時にこの子は私の希望だと思ってそういう名前をつけてくれましたが、私には、母の生きざまが私の希望そのものでした。

離れることで共依存は終わり、私も母も、少しは自分の時間などを取り戻せたと思います。
母の余生はあと少し。
私は、母に安心して死んでほしいと願っています。幸せだと思いながら死んでほしいし、自分は間違っていなかったと確信しながら死んでほしいです。
母だって間違えたことはあると思います。しかし、身を粉にして働きながら懸命に子どもたちを守ろうとしてきた人が、人として間違っているわけがない。私はそう思っています。
子どもたちに尽くした末に息子を亡くし、母が今何を思っているのか、私も今すぐにでも知りたい、聞きたい、話したいです。
けれども私に出来ることは、いつか母が安心して死ねるために、まずは私自身がしっかり生きて、そして、幸せであることです。

願わくば、母も幸せに生きていけますように。
自分は間違ってなどいなかったと、確信できる日が少しでも早くきますように。
もう一度会いたいです、お母さん。

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