見出し画像

【初めての今ドキ登山】なぜ登山なのか(@富山県立山) その7


 2023年8月12日、立山に登った。その模様はすでに動画でこちらに公開してある。↓

 noteでは、動画で表現できなかったことを書こう。つまり、
 1.撮影しなかった、できなかったこと。
 2.AV、視覚聴覚以外の感覚のこと。
 3.映像や現象の裏にある、理由、感情、背景、歴史。
 4.なぜ山に登るのか、山に登るとは自分にとって何なのか。

以上、前置き終わりです。

 今回はレポートじゃなくて、私の思いを書くので、うっとうしいと思う人は以下の文章は読まない方がいいと思います。


 このシリーズのタイトルは【初めての今ドキ登山】、「今ドキ登山」は初めてだけど、登山自体は初めてじゃない。生まれて初めての登山は、小学校6年生の夏の遠足で来た、ここ立山だった。それ以来ずっと山に魅せられていた。登山が大好きだ。だからン十年ぶりに、今年登山を復活させた。というより再び初心者になって、登山に一から取り組もうと思った。

 山の何が、そんなに好きなのか?
 自分の中で答は自明だが、それを人に分かるように言語化するのは難しい。その難しいことに、この文で挑戦してみる。
 一つの思いがある。しかし、それはあまりに個人的かつスピリチュアルで、理解してもらえそうにないから、後回しにしよう。

 まず、あまりにベタで恥ずかしいくらいだが、それでも書こう。
 登山は人生のメタファーである。山行の成功は、満足できる人生とはこんなものじゃないだろうか、と感じられる何かを与えてくれるから、惹かれるのだ。

 登山は人生のメタファー(比喩)というのが、わかりづらいだろうか。
 まず麓から山頂を眺めた時、あんな遥かな高みに、どうやって辿りつけるだろうか、無理だ、不可能だ、と思う。
 それでも登山道に一歩を踏み出す。あとは地図や標識や前の人の足跡を頼りに一歩一歩踏み出していく。山中に入ると山頂は見えなくなり、自分が正しい道を歩んでいるのか、ゴールに近づいているのか、わからなくなる。

 それでも、自分で正しいと信じる道を歩むしかない。たとえ道があったとしても、その道は舗装された歩きやすい道ではなく、崩れかけた、あるいは急坂の険しい道、岩壁にわずかに足場のある道、ぬかるんで滑る泥だらけの道で、どこに一歩を下ろすか、ルートファインディングは登山者各自でしなくてはならない。同じ道などない。登山者ひとりひとりが発見し、創造しなくてはならない道だ。

 道を間違い、迷うこともある。かなり進んでから間違いに気づき、引き返すこともある。思いがけないアクシデントが起きる。あるばずだった道が通行止めになっていたりする。足がこむら返しを起こして歩けなくなることもある。鎖やロープを頼りに垂直に近い壁を上らなくてはならないこともある。
 下調べはする。入念な計画も立てる。しかし計画通りには絶対にならない。その場その場の臨機応変の対応・判断力が必要だ。それが間違っていたりする。それでも落ち込んでいる暇はない。予定通りに登頂して、予定時間内に下山しないと命に関わる。

 そんな切羽詰まった状況の中、呼吸も荒く山を登っていくと、山頂まであと何時間とか、今どこまで上ったのか、そんなことを忘れる時間が来る。ただ息を吸って吐いて、足を一歩一歩前に出していく。そのことしか考えない時間になる。
 汗で上半身のTシャツがびしょ濡れになる。そんな無心のような時間に出会う、山の緑の鮮やかさ、風の爽やかさ、そして急に視界が開けて見下ろす平野の風景が心に沁みる。

 いつの間にか、上に空以外見えないところを歩いている。山頂だ。風が吹いている。体の汗を乾かしていく。山頂から見下ろす世界の雄大さ、まるで自分が広い世界を手に入れたような錯覚を覚えるほどに。
 麓にいたときは山頂に辿りつくのは無理に思えた。その山頂に、今、自分は立っている。この偉業を達成するのに、特別な才能や技術は必要ない。

 ただ足を前に出し続けただけだ。体力があれば誰でもできる。それが素晴らしい。誰でもただ、歩み続ければ山頂に辿りつけるんだ。
 それは希望だ。

 こんな風に私は人生を考えてきた。間違いかもしれない。幻想かもしれない。でも、そう思うことは希望なんだ。ただ今、前に進む一歩一歩に集中していれば、いつかは目標の地に立てる。そう信じている。
 信じたいから、山に登る。
 それは信念、というより信仰、だ。

 このシリーズで、立山信仰のことを書いた。私の信仰は、本当の立山信仰(立山に登れば、行きながらにして地獄と極楽を見ることができる。それによって修行になる。死に別れた人に出あえる等)とは違う、と思うが、立山にスピリチュアルなものを感じてしまう感性は共通している。

 小学6年生の遠足で、初めて立山山頂に立った。しかし小学生の足では日帰り登山は無理で、室堂で一泊して、それから下山だった。
 室堂で朝目覚めて、顔を洗って外を眺めると、山崎カール(圏谷)の雄大な谷の斜面にハイマツが短い枝を伸ばしている、その向こう、遠くにライチョウが一羽飛び跳ねて、岩陰に姿を消した。
 空気が寒いくらいで、とても澄んでいた。目を上げると、昨日登ってきた立山連峰が目の前に屏風のように広がっている。
 いや、立ちはだかっている。と当時の私は感じた。岩塊、という言葉が浮かんだ。巨大な岩の塊だ。そして、それが自分に迫ってくるようだった。自分の胸の中にまで入りこんでくるようだった。
 山は自分や人間を越えた存在だ、と思った。神々しい、という形容はこういう時に使うのか。
 確かにその時、山に神性を感じていた。

 突拍子もない話で、信じてもらえなくても、共感してもらえなくても仕方がない。
 しかし、小学6年生の私は、室堂で目覚めた朝に、神は、人間を越えたものは存在する、と知った。今も私にとって、登山は神に近づく行為だ。ちゃんと登って下山できたら、私は私をもっと好きになれる。

《FIN》

 

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?