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ケルアック『オン・ザ・ロード』の速度論:移動の発生から国家への服従まで

Ⓒ2012 アメリカン・ゾエトロープ、他

① 序論:ドロモロジーについて

産業革命以降の技術革新により、人々の生活様式が「高速化」していることは疑いようがないだろう。特に、第二次産業革命(1870年頃~1914年)にて登場した自動車はそれまでと比較にならない驚異的な移動速度と移動距離をもたらすこととなった。
 飛躍的に向上した「速度」により、人々は固有の土地を所有する生活を捨て、封建制度を否定するに至った。速度についての研究で知られる思想家ポール・ヴィリリオは著書『速度と政治』の中でテクノロジーにより高速化した現代社会を「速度体制社会」と表現している。

 本論では、ジャック・ケルアック『オン・ザ・ロード』を速度術=ドロモロジーの発展が生み出した代表的な小説としてとらえ、主要人物ディーン・モリアーティにとっての速度について検証することを目的とする。

② 絶え間ない移動:不連続な快楽とジャズ

言うまでもないが、速度がもたらすものは「移動する手段」のみであり、本人に移動の意志がなければそもそも移動の必要は生じない。つまり、『オン・ザ・ロード』において「速度」は物語の求心力となっているディーンの「移動のモチベーション」を通じはじめて顕在化するテーマなのである。本作における速度を論じるためには彼の移動のモチベーションを考察することが不可欠なのだ。

 一般的に移動のモチベーションは「不安」である。いかに移動手段が発達しても、現状に満足していれば人は移動に迫られない。移動手段を受け入れるということは、現状への不安を認識し新たな領域に可能性を求めるということである。例えば十字軍の遠征は財政破綻とトルコ人の侵略への不安がモチベーションとなったことで発生しているが、この例からも極度の不安が段階的に「土地の放棄」と「移動の発生」をもたらすことが分かるだろう。

 ディーンの移動のモチベーションも現状への不安に端を発している側面がある。彼の不安は「快楽の不連続性」という形で表面化している。根無し草としてアメリカを何度も横断するディーンの人生は引っ越しの連続で成り立っていると言える。隣町へ移動した彼はしばらくの間熱狂と快楽を味わうものの、その町で完璧な満足を得ることはなく、すぐに次の町へと移動してしまう。彼の旅は魅惑と幻滅の繰り返しで構成されている。快楽の不連続性が絶え間ない移動のモチベーションとなっているのである。ディーンにとっての移動とは、快楽が不連続であるかぎり必然的に引き起こされる現象である。

 ディーンの味わう不連続な快楽、言い換えれば即自的な快楽は、作中ジャズ音楽(あるいはドラッグ)と深く関わった形で表現されている。例えば、シカゴでのパーティー描写はジャズ音楽による快楽を端的に表現している:

いつだってもっと先が、すこし遠くがある――終わりはない。シアリングの探求の後をうけて、連中は新しいフレーズを探した。懸命に挑んだ。悶えてねじれて吹きまくった。ときどきクリアでハーモニックな叫びから新しい音色のひらめきがのぞき、それはいつか世界でただひとつの音色となって人間の魂を歓びにみちびくものになりそうだった。連中は見つけてはまた失った。格闘しては求めてまた見つけた。大笑いした。呻き声をあげた――ディーンはテーブルで汗ぐっちょりになって、行け行け行けと言いつづけた。

青山南訳『オン・ザ・ロード』河出書房, p.388

「いつだってもっと先が」あり、「終わりはな」く、「魂を歓びにみちびくもの」を「見つけてはまた失」う「即興」というジャズの音楽スタイルは、ディーンの移動のモチベーションと完全に一致している。肝心な点は、あくまで移動=ジャズの快楽は一時的に生み出されたものにすぎないことである。ディーンにとってのジャズとは快楽の源としての音階を創造し、失い、再生産する流動音楽であり、そしてこの創造-喪失-再創造のプロセスには終わりがない。ディーンの満足は持続不可能であり、それゆえ彼の満足の追求は終わりのない移動行為として表面化する。彼の「行け行け行け」という叫びはまさに彼自身を移動へと駆り立てるモチベーションを象徴している。

 ディーンの移動のモチベーションは自動車という速度術によって満たされることとなる。前述の通り、彼の生活は「即興」に支えられているが、即興とは責任や準備を必要としない行為であり、準備の時間を短縮する方法でもある。ディーンは高度に発展した速度術の恩恵を得ることで責任と準備という「遅い速度」から解放され、即興という軽やかで「早い速度」に身を任せることができるのである。
 ジャズはディーンのライフスタイルのみならず『オン・ザ・ロード』の構造そのものも象徴している。本作の舞台はジャズのように流動し、創造-喪失-再創造のパターンが繰り返される。ケルアックは『オン・ザ・ロード』をジャズ的文体で書き切っていると言えるだろう。

③ 所有について:ディーンのフロンティア・スピリット

前章では、ディーンの移動のモチベーションを不安という観点から論じたが、本章ではもう一つの柱である所有について論じる。
 ディーンの旅は「移動と速度」を重視するアメリカのフロンティア・スピリットそのものを象徴していると言える。19世紀、北アメリカにて行われた西部開拓は、土地の所有権を得ることによる定住を最終目標とした移動であった。前述の通り、移動の発生にはモチベーションが必要である。彼らのモチベーションは定住であるが、定住は「移動の排除」を意味する。「移動の排除」が「移動」によりもたらされる撞着的な状況はそれ自体非常に興味深いが、肝要な点は未開拓の土地を他者よりも早く所有するために「速度」という要素が必要不可欠であったことである。西部開拓を今のアメリカ合衆国発展の要因とするならば、アメリカの発展は「移動と速度」から始まったと言うことができるだろう。

 ディーンの旅にも「開拓」の一面が存在する。ただし、彼は土地の所有という旧来の価値観に従った開拓をしようとはしていない。引っ越しを繰り返す彼のアメリカン・フロンティア・スピリットには領地の所有という概念が欠けている。
 代わりに、ディーンは女性の所有に没頭する。彼の旅の目的は女性との「和解」である。女性の所有というモチベーションは、アメリカン・フロンティア・スピリットの男性原理的側面を強調している。Tim Gresswellは以下のように主張している:

In On the Road, travel in space is connected with masculinity while place and home are feminine. Such images are firmly rooted in the dominant ideology of the United States which connects the woman to the home and the men with the public arena outside the home.

参考 (1), p.258

アメリカン・フロンティアのモチベーションは「土地の所有」から「女性の所有」へと変化したものの、土地や女性といった「富」を所有するために速度を行使する構造に変化はない。ディーンのライフスタイルは当時の若者の気持ちを代弁し得る斬新なものであったと同時に、古いアメリカのフロンティア精神を継承していたのである。

 さて、ディーンのフロンティア・スピリットには女の所有という野性的な側面のほかに知識の所有という文明的な側面もある。主人公サル・パラダイスは彼について「本物の知識人になれるかもしれないというすてきな可能性にとりつかれた少年院出のチンピラにすぎ」ないと評しており、ディーンの知識レベルについて「ぼくの新しい友人は、やつ以外、みんな『知識人』だった」と述べている。11歳から17歳までニューメキシコの少年院に収容されていたディーンは自分の生い立ちに不満を抱いていると考えられる。そのため彼は「西部的」なチンピラを脱し「東部的」な知識人に迎合しようと試みていたと思われる。ちなみに、ディーンがサルと出会ったきっかけも彼の知識欲である。共通の友人チャド・キングに「ニーチェについてぜんぶ」「おまえの知っているすごい知識をぜんぶ」教えてくれるよう頼んだところ、チャドが作家であるサルを紹介したところから二人の交友が始まっている。
 しかし、物語全体を通じ知識の所有という文明的な命題は女の所有という野性的な命題に飲み込まれ、やがてディーンはアメリカの西部開拓をなぞるように狂気的な移動を繰り返すこととなるのである。

④ 速度兵士としてのディーン

本章では論点を再び「移動」から「速度」に戻し、速度兵士としてのディーンというテーマに焦点を当てる。
 身体と機械の同化は速度を得るために効果的な社会戦略である。人々は電車や自動車や飛行機に乗り、自らの身体を機械の一部にすることで、本来決してコントロールできない速度を手に入れることができる。ディーンの速度欲求は自動車によって満たされている。ディーンは時々自動車を盗むが、彼の自動者に対する欲求は盗みを英雄的行為として正当化するほど大きい。アイオワのカーブを最低80km、直線なら基本110kmで飛ばす「運転のエキスパート」ディーンは、人並み外れた速度欲求を自動車を運転することでコントロールするキャラクターである。彼はまるで自分の身体の一部であるかのように簡単に自動車を操る。彼が自動車を運転するとき、自動車は身体の延長として機能する。その結果、自らの身体だけでは決してコントロールできない速度を手に入れることができるのである。

 さて、自動車によってもたらされた速度は一見ディーンに自由を与えてくれるように思える。しかし、彼の移動経路は道路・車線・区画によって制限されている。本作のタイトル『オン・ザ・ロード』はディーンの移動が道路に方向付けられていることを意味している。そして、その道路は国家によって作られる。ここで、ディーンの冒険の背後に「国家」という単位が浮上してくるのである。
 ポール・ヴィリリオは、個人の移動はすべて国家によってコントロールされていると述べている。彼は戦争における速度の重要性を論じ、道路の整備による速度の統制が優秀な「速度兵士」を生み出す規律訓練として機能すると指摘している:

Let’s make no mistake: whether it’s the drop-outs, the beat generation, automobile drivers, migrant workers, tourists, Olympic champions or travel agents, the military-industrial democracies have made every social category, without distinction, into unknown soldiers of the order of speeds- speeds whose hierarchy is controlled more and more each day by the State (headquarters), from the pedestrian to the rocket, from the metabolic to the technological.

参考 (2), pp.136-7

人々が速度を求めれば求めるほど、彼らは無意識のうちに国家にコントロールされた「道路」を辿ることとなる。国家は人々を支配しようとする家父長的機関の一側面であり、ともすればその最大の権威である。つまり、ディーンが自由を求めて道路を運転すればするほど、彼は意に反して国家のコントロールの影響を強く受けることとなり、ついには従順な体に「改造」されてしまうのである。
 移動はディーンの身体に不自然な負荷をかける。速度兵士として消費された彼にもはや自動車を運転する力は残らない。実際、彼は最終盤自動車を手放しバスで移動するようになってしまう。速度を自らの手で作り出す力を失ってしまったのである。ここまでくれば彼は国家によって作られた道を従順に移動するだけの主体なき肉片に他ならない。ディーンは速度により徐々に国家に服従していくキャラクターとみなすことができるのである。

⑤ まとめ

【速度学(ドロモロジー)】=高速化した社会
・ディーンの移動のモチベーション
 1. 快楽の不連続性=ジャズ
 2. 二つのフロンティア・スピリット=女>知識
・道路=国家によるコントロール:機械との同化、規律訓練、速度兵士と化したディーン ▶︎ 国家へ服従する身体

【参考】
(1) Gresswell, Tim. “Mobility as Resistance: A Geographical Reading of Kerouac’s ‘On the Road’.” Transactions of the Institute of British Geographers, vol. 18, no. 2, 1993, pp. 249-62.
(2) Virilio, Paul. Speed and Politics. Translated by Marc Polizzotti, Semiotext (e), 2006.

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