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地底からの手紙

つまらない人生だった。

私が薬に手を染めてから、もう十余年は経っている。
違法な薬には手を出していないが、猿酒は経験がある。もう時効になっているので白状するが、要するに、ブドウジュースのようなものに製パン用のイースト菌を入れ、醸したのである。

私は裕福な家庭で何不自由なく育った。
幼稚園を卒業してからは地元の公立小学校に通いつつ、公文や剣道、水泳、サッカーなどの習い事を経験した。思うに、私の人生の絶頂はそのあたりである。公文には週三か四で通い、主に算数を得意として、小学校四年生の頃には二次方程式を解いていた。
夏休みの娯楽といえば、公文の算数プリントであった。ゲームは買い与えられていたが、公文で表彰された褒美として1本だった。お小遣いなどは当然なく、自分の所持金は公文やサピックスへ行くバス代と、帰宅を連絡する公衆電話の10円だけだった。

習い事が多く、友達に恵まれなかった私は、いつも教室で疎まれていた。誰がやったのかわからないが、椅子には時折マヨネーズが塗られていたのをよく憶えている。なまじ勉強が得意であったため、先生からも邪険にされる存在であった。

こんな生活は耐えられない――そう考えた私は、兄に倣って、中学受験することを申し出た。マヨネーズと中学を伴にするのは御免だった私にとって、学区域外の遠く離れた中学へ通うことは唯一の希望に思えたのだ。
私は熱心に受験勉強をした。

しかし、受験勉強は思うようにはいかなかった。
小学校四年からサピックスに通い、得意の算数で点数を稼いで最初は「アルファ・ワン」のクラスに入ったが、次第に同級生の学力が私を超えてゆき、最後にいたのは「G」だった。
私は必死に方程式を立てた。小学校の算数というものは、基本的にどんな問題も連立一次方程式で解くことができる。私はそれにしがみついて、様々な解法を覚え、試行錯誤するという柔軟性を失ってしまったのである。

それでも、1日12時間、いや14時間は勉強をした。小学校高学年の生活のほとんどを勉強に費やした。夜も1時まで勉強をし、朝は6時に起きて勉強をした。
このへんから私の心が壊れ始めていく。

叫ばずにはいられなかったのだ。
リビングのテーブルと椅子に縛り付けられ、両親の前で勉強をしたが、その時起きたことは自分でも理解が追いつかなかった。「ワー」と大きく叫んでしまうのである。時には「キー」であったかもしれない。自分では叫んでいる自覚などないのだが、体が勝手に奇声を発するのである。
さらに、手がブルブルと震えだし、鉛筆の芯をボキッと折ってしまうのである。シャープペンをテーブルに叩きつけ、割ってしまうことも多かった。ペンを噛んだり、消しゴムを噛み千切ったりした記憶もある。

それでも私は勉強を続けるしかなかった。勉強して成績を上げて、いい中学に入らなければいけないと囚われていたのである。

結果、私は偏差値72の名門進学校に入学することになる。

正直、模擬試験の結果からみるに、これは奇跡の合格である。試験本番ではなぜか自分の得意な問題ばかりが出題され、解いてる最中から手応えがあった。

これが全ての悲劇の始まりである。

まぐれで合格してしまった私にとって、周りの同級生は、数枚上手だった。
まず、会話に追いついていけないのである。話している内容が難しすぎて、私には入っていくことが難しかった。適当な返事をすると、好奇の目を当てられた。
そんな中、私は父親からパソコンを買い与えられた。
今の御時世、パソコンが使えないと食いっぱぐれる――そう考えた両親からの訓練であった。
しかし、私がパソコンやインターネットを使ってやったことは、阿呆の「あ」にも及ばぬことだった。検索履歴には「女 裸」「ヴァギナ Wikipedia」などが並んだ。一応プログラミングも覚えたが、Windowsのタスクバーにカーソルを当てると警告が100個出てくるだとか、100GBのテキストファイルをSkypeで共有するだとか、そんなものばかり作って、あとは簡単なゲームを制作して悦に入っていた。今でもその黒歴史はネット上に残っているが、ヤフージオシティーズが閉鎖されてくれたおかげで大体は消えてくれている。

そして中学3年、危機が訪れる。
身の丈に合わない進学校で完全に落ちぶれていた私は、附属高校への進学要件を満たせなかったのである。
通常、進学率は100%であるか、落第しても1人か2人である。私は都合300人の生徒の中で、選ばれし存在となったのだ。
勉強をサボっていたわけではない。授業中は必死にノートを取り、家に帰っては問題集を解いていたし、帰りの電車でもかならず単語帳を手にしていた。要するに、「頭が悪い」のである。
結局、私の勉学に対する熱心さを鑑みて、幹部教員の投票の結果、私は附属高校への進学権を何とか勝ち取り、一旦は事なきを得た。

しかし、この時点で私の精神は完全に破壊されていた。

インターネットでは散々泣いた。そうすると、境遇を憐れんで寄り添ってくれる大人がたくさんいた。そのうちの一人は、今で言う「絵師」だった。
Tというその女性は、やつがれなんぞよりも格段に悲惨な運命を背負っていた。そのTは、自分の血液で絵を描き、薬という薬を「オーバードーズ」して、インターネットで悲鳴を上げていた。
私は、彼女の真似をした。
まずは新宿の薬局へ出向き、薬を入手した。種類は「パブロン」で、確か130錠入りの瓶である。
手始めに、それを20錠飲んだ。
すると、何とも筆舌に尽くしがたい得も言われぬ恍惚感と高揚感で、脳が、全身が温かくなり、吸う息がいちいち甘かった。畢竟するに、私はこの瞬間、人生で与えられるべき全ての快楽を使い切ってしまったのであろう。
薬が切れると、私の人生の地獄たることをまざまざと実感した。このとき私は両親からの指示で自習型の英語塾に通っていたのだが、学校でヘトヘトになった後の21時まで続く週三の英語塾は「苦痛」の二文字では表現できない。体温は常に37.5℃はあった。自律神経が乱れているのである。
そこで、Tのやっていた「もう一つのこと」を思い出した。
そう、リストカットである。
私はとうとう刃物を自分に向けた。最初はおそろしく、一本、二本、慎重に皮膚を削った。血が出ると嬉しかった。ようやく自分も「苦痛」を味わっていることを自分で認められるようになった感じがしたのである。
やがて、リストカットは私の日常となった。
気付けば、朝起きては腕を切り、包帯を巻いて登校し、昼休みになったらトイレで腕を切り、夜寝る前に腕を切るようになった。切りすぎてもう切るところがなくなったら、手首から腕へ、腕から二の腕へ、二の腕から太ももへ、切る範囲を広げていった。
リストカットというのは、中毒性がある。後から知ったことではあるが、痛みを消すために一種の「脳内麻薬」が出るそうなんである。私は、腕を切り、じんわりと頭がしびれていく感覚の虜になった。
薬も飲む。
一度に飲む量は30錠、40錠と増えていき、飲む頻度も、はじめは週に1回だったのが、3日に1回、2日に1回と増えていき、気づけば毎日100錠を超える量の薬を飲むようになっていた。
察しのよい読者の方は気づいているだろう。「お金はどうしていたのか」と。
実は、中学への進学を機に、私も人生初めての「お小遣い」を手に入れていた。最初は1000円、3000円、5000円と、学年を重ねるごとにその額は増えていった。しかし、どう計算しても月5000円で毎日薬を飲むことはできない。
そう、体を売ったのである。
相手は水泳部や野球部の男子だ。最初は相手の陰部を手で扱うだけだったが、放課後のロッカーに閉じ込められて強姦されたり、四肢を縄で縛り口を開けさせられたりした。その褒美に、金を貰っていたのである。名門進学校で、医者の息子が多かった客層であるので、羽振りはよかった。案件が済んだら、喜んで薬局へ急ぎ、また薬を買ったのである。

どこに書いたやら忘れていたが、「猿酒」の話をしよう。
これは、ひどかった。最初は自宅の部屋で醸していたのだが、アルコール発酵が始まると特有の匂いが上がってくるので、すぐバレる。
どこで作ったのか。
それは、倉庫を改築して作った部室棟の端っこの裏である。
名門進学校と言えども、狂った奴というのは一定数おり、私が猿酒を醸している隣でSはシンナーを吸っていた。

ここから私はどうなったのか。
まず、大学受験をし、当然落ちた。浪人した。東京理科大学に入学した。
この通り私はメンタルに大問題を抱えているが、ここまで精神科医療やスクールカウンセラーなどのサポートを受けることは一切認められていなかった。「病院に行かなかったから悪化したんじゃないか」と言われると苦しいのだが、一つ言えることとしては、時代が違った。今のようにメンタルヘルスケアを真剣にやっているところなどそうそうなかった。今でこそ駅前にカジュアルなメンタルクリニックがたくさんあるが、当時は「弱虫」の二文字で片付けられてしまっていたのである。

幼少期に得た輝かしい栄光と将来の発展を期待され、必死に親の期待に応えようと努力するも力及ばず、本当に惨めで、情けない。私はこんなはずじゃなかった。薬なんて好きで飲んでるんじゃない。腕も切りたくて切ってるんじゃない。誰か、助けてください。私を、見つけてください。


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