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久留米からの日本史

福岡県久留米から日本史を組み立てなおす試みです。書きかけでも随時更新します。現在は林洋海『久留米藩』を参考にしています。

久留米と秀吉

天正15年(1587)3月に秀吉が島津を討伐するため、毛利輝元が開城していた小倉城に入りました。軍議を終えた秀吉軍は豊後・日向路と筑前・筑後・肥後路の二手に分かれて進撃しました。秀吉は6月7日に筥崎に凱旋し、筑後に五大名を配しました。小早川隆景小早川秀包立花宗茂高橋直次筑紫広門です。秀吉は筑後川が開いた肥沃な土地と水運のよい筑後を重要視しました。中国・朝鮮侵攻のための軍事兵站基地とみなしていたからです。

久留米と小早川隆景

秀吉に博多への移封を打診された毛利輝元は代理として毛利一族の小早川隆景を立花(山)城に送り込みました。小早川隆景は久留米に子の小早川秀包を遣わして治めさせました。                      ※【封(ホウ)】土を集めて盛って境界を作り、領土を与えて諸侯とするの意味

久留米と小早川秀包

天正13年(1585)に小早川秀包は秀吉の九州攻めの先兵となり、軍奉行の黒田孝高の下、毛利輝元の指揮で豊前の諸城を陥落させました。天正15年7月に小早川秀包は久留米7万5千石を得て久留米城に入城しました。その際、秀吉の媒酌によって結婚したばかりの大友宗麟の娘、引地を伴っていました。天正16年に秀包は侍従に叙任され、「羽柴久留米侍従」と呼ばれました。小早川秀包は豊前城主の黒田孝高に勧められて入信したキリシタン大名でした。秀包の庇護と奨励で久留米地方のキリシタン信者は7千人に達しました。

久留米とフロイス

天正17年(1589)に秀包の息子である元鎮が誕生した際に『日本史』を著したルイス・フロイスが来て洗礼を行いました。

久留米と関ヶ原の戦い

慶長5年7月に関ヶ原の戦いが起こると、秀包は毛利陣営の一員として石田三成の西軍につきました。西軍が敗れた後、久留米城は豊前の黒田如水と肥前の鍋島直茂が率いる3万7千の軍勢に攻められて開城することになりました。秀包は本家の毛利輝元に庇護されましたが、35歳で病死しました。西軍に与した筑後の五大名は国を失い、筑後は筑前の黒田・肥後の加藤家が派遣した代官によって治められました。そして、慶長6年(1601)三月に岡崎十万石の城主、田中吉政が筑後一国三十二万九千石の新領主として就封しました。しかし、吉政が柳川城を本城として、久留米城は支城となりました。

久留米と一国一城令

幕府による一国一城令で、田中筑後藩の支城だった久留米城は、石垣などを除いて本丸などが破却されていました。そこで、同じく破却されていた榎津・城島・福島・黒木・赤司の五城に残っていた木材や石垣を修復に利用しました。さらに、筑前福岡藩の黒田氏や肥後熊本藩の加藤氏から援助を受けており、筑前堀や肥後堀などの呼び名の由来になっています。

久留米と島原の乱

寛永14年(1637)10月下旬、島原藩唐津藩天草領で一揆が勃発しました。島原藩の支援要請に幕府は、板倉重昌と石谷十蔵を上使として九州に派遣して、九州の諸大名を鎮圧に向かわせました。出陣した久留米藩は討ち死に97人、手負い816人という結果に終わりました。一進一退のまま迎えた11月に、幕府は老中の松平伊豆守信綱を上使として派遣することを決定しました。さらに、正月12日に幕府は西国大名に島原への出陣を命じました。70歳の有馬豊氏も江戸を出発して、30日に久留米に着くと、洗切から船に乗り、筑後川を下って有明海を越えて、翌晩に島原の陣所に立ちました。最終的には久留米藩から7300余人が出兵して、戦死173人と手負い1412人を出しました。戦費の負担は大きく、久留米藩の財政は破綻寸前になりました。                           ※洗切は城郭のそばにあり、藩の浜蔵も置かれ、船手方が常駐して川舟運行や河港の管理に当たっていました。

久留米とケンペル

元禄4年(1691)、五代将軍綱吉の時代、オランダ商館付きの医師として赴任したドイツ人医師ケンペルは、帰国後『日本誌』に著しました。オランダ商館長に随行して江戸に二度参府しましたが、その際に久留米城下を訪れたことがあります。久留米城の華麗さや堀の美しさを称える一方、城下町の町並みはみずぼらしく感じられたようです。

久留米と蔵屋敷

久留米より上流地域の米は久留米城下に運ばれて藩内で消費し、下流で産出する米は榎津港から大阪の蔵屋敷に運ばれていました。藩米の大阪屋敷への回送も筑後川から有明海を経ていました。

久留米と海軍

幕末、久留米藩は艦船10隻を擁する海軍力を誇りました。最初は小倉藩に港を借りて、その後は筑後川河口の若津を軍港としました。英軍を献策したのは江戸から帰藩した今井栄でした。

久留米と戊辰戦争

慶応4年(1868)3月7日に新政府は久留米藩に関東への出兵を命じました。すでに上京して大坂と神戸の警衛についていた藩兵350人は家老脇の有馬蔵人を総督として、東征大総督の有栖川宮熾仁親王の下、4月18日に京都を出発して江戸に入りました。初陣は5月15日に起きた旧幕府方の彰義隊との上野戦争でした。

久留米と奧羽列藩同盟


※【譜代(フダイ)】「譜」は系統を意味することから、同一の系統の主家に代々仕えること

歴史のまち久留米ストーリーシート





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