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寛永十四年 崎田村善四郎が捕えたイタリア人伴天連をめぐって(普門寺住職 丸山隆照)

普門寺住職 丸山隆照

※令和2年度宮崎民俗学会研修会発表資料(2021年2月13日)


 「ヴェデ・ナーポリ、ポイ・モーリ」。「ナポリを見てから死ね」の意であるが、そのナポリが最も美しいと云われるポジリポの丘からは、遠くヴェスビオス火山が遠望できる。その姿はなるほど鹿児島の桜島に似ている。鹿児島市が東洋のナポリと喧伝される所以でもある。ヴェスビオスの傍らには名高いポンペイ市民の悲劇の物語と遺跡が横たわる。

ナポリ市街とヴェスビオス火山

          ナポリ市街とヴェスビオス火山

このポジリポの丘からはナポリ王宮やマルチェロ・フランチェスコ・マストリリが生まれた旧マストリリ侯爵家も眼下に納めることができる筈だが、建物陰に隠れて見えない。数十回は訪れたであろうイタリアではあるが、今、住持を預かる身となっては時間的余裕もなく、ナポリでマストリリ神父についてもう少し調べておくべきだったと後悔しきりである。 
 私がマストリリ事件を知ったのは、父親の大学時代の友人で地方紙の主幹をされていた秋山栄雄さんの「御用の旗が日向路をゆく」と題した伊能忠敬測量日誌を基にした新聞連載物のNo794「普門寺」(小衲が住職)記事(1990年)中に、『寛永十四年七月九日、福島・崎田村の善四郎、伊太利国伴天連を捕う。泥谷監物、入江角右衛門、伴天連を伴いて長崎奉行所に渡す。善四郎賞銀を受く。』の記述を目にしたのが契機である。爾来、書き物にしたいと資料は蒐集していたが、今回一部を発表する機会を得たので、浅学の身を省みず、乞うご笑覧(読)。


1 伊太利国伴天連(バテレン、ポルトガル語で神父のこと)とは誰か、神父マストリリか

 そもそも高鍋藩の記録には伊太利国伴天連が誰であるかの記述がない。「レオン・パジェスの切支丹宗門史」には、取調べに際して、捕えられた伴天連の多くは姓名を名乗らずとあるので、出身地のみ答えたのであろう。長崎奉行所取調記録に何がしか手がかりを期待したのだが、寛永年間のものがない。日本近世史が専門で、旧知の九州大学の宮崎克典先生に問うても確たるものはでてこなかった。また、宮崎先生のアドバイスで長崎歴史文化博物館を調べたが、寛文3年(1663年)の長崎大火で資料が焼失し、それ以前の史料は皆無に等しいことが分かり、高鍋藩資料のみに絞りアプローチすることとした。
 秋山さんの記事は「日向国史 高鍋藩重要事項年表」からの引用であるが、冒頭のナポリ出身「マストリリ」の名はない。高鍋藩本藩実録や藩史備考、隈江家(元高鍋藩家老、福嶋都合)記にも伊太利国伴天連とはあるがマストリリの名はない。だが、檜垣三喜雄さんの「串間地名考」や2006年串間史談会々報の津野洋吉先生の一文には崎田の善四郎が捕らえたマストリ神父とある。そこで、津野先生にマストリの典拠についてお尋ねしたところ、「茂野幽考著、日南切支丹史」(日南とあるが、宮崎県の日南に非ず、日本の南にある鹿児島のことを指す?)に拠ったことなど多くをご教示いただいた。
他方、ヨーロッパ側の記録ではマストリリに関する伝記や報告書が数多く存在する。フランス・パリのベッソン氏コレクションのイエズス会宣教師報告文書類やニエレンベルグ、スタッフォード、チナミ氏らによる伝記(数ある伝記類の中でもこの3氏のものが特に充実しているといわれる)等、これらの記録類と照らし合わせて、同一人物であるかを検証してみた。

① 捕縛日付の問題点
 私が問題視したのは捕縛の日付である。高鍋藩の記録とヨーロッパ側のマストリリのそれとが一致しないのである。当然、和暦と西暦の違いがあるが、今は和暦を西暦に瞬時に変換できる大変便利なインターネットサイトがある《現在最も信頼できる対応表とされる『日本暦日原典』の表に相当する変換テーブルを内部データに収めたサイト『換暦』(http://maechan.net/kanreki/)。『換暦』を使うと、和暦(南朝元号、北朝元号を含む)、西暦(ユリウス暦とグレゴリオ暦)、ユリウス日のどれかひとつを入力するだけで、他の日付とともに干支年、干支日、六曜、曜日を一挙に表示することができる。変換範囲は、紀元前4714 年から紀元後2099 年までと優れものの極みである。》
 これを利用して、補縛の日付寛永14年7月9日を西暦に変換すると、1637年8月28日となり、ヨーロッパ側の記述に共通する日本へ最初に到着した日(薩摩到着日)、1637年9月19日より22日も前に捕縛されたことになる。当初、当時混在していたグレゴリオ暦とユリウス暦の違いかとも思ったが、やはり齟齬がある。《天正少年使節日本出発の年1582年にローマ法王グレゴリオ13 世がそれまでのユリウス暦からグレゴリオ暦への転換を宣言したので、和暦を西暦に換算する時は天正十年九月十八日(1582 年10 月4 日)まではユリウス暦に換算し,その翌日の天正十年九月十九日(1582年10 月15 日)以降は現行のグレゴリオ暦に換算するのがスタンダード処理となっているそうである》
 グレゴリオ暦1637年9月19日薩摩到着とすると、長崎到着10月5日までこの間16日しかないことになる。薩摩到着から崎田までかなりかかったというし、福嶋から財部(現高鍋の江戸時代前の旧称であり、鹿児島県曽於市財部とは別)、長崎への報告や指示待ち、約壱か月を要したという日向から長崎までのみせしめ道中の日数を勘案するとやはり無理がある。マストリリの伝記類は同一記録から転載したと推測できるものが多く、最初8月19日と書くべきところを、誤ったのではないかとも推察できる。なお、「日南切支丹史」には薩摩到着をグレゴリオ暦1637年8月5日としているがその典拠の記載はない。これらから、捕縛日付に関して言えば、高鍋藩の史料の方により合理性がありそうである。
 先を急ごう。日本カトリック中央協議会やイエズス会の記録を調べて、この1637年(寛永14年)後半に長崎で殉教した外国人宣教師は数人存在するが、捕縛地が琉球等であることや長崎奉行所への出頭日、処刑された日がそれぞれ特定できることなどが確認され、日向にて捕縛とされる外国人宣教師はマストリリ一人であることから、マストリリに絞って話を進める。マストリリに特定して資料を調べるとやはり、高鍋藩のものと一致するものが多く出てきた。

②高鍋藩記述とヨーロッパの各種記述が一致。

 伊太利国伴天連はマストリリ神父であった。マストリリが「伴天連」と同定できる根拠はないかと調べたところ、重要な一致は「高鍋藩藩史備考巻七」に「イタリア国伴天連ヲ虜ル(中略)寛永14年8月17日(1637年10月5日)泥谷監物、入江角右衛門其外歩行足軽都合百余人ニテ於長崎馬場三郎左右門殿榊原飛騨守殿ヘ相渡ス」とあり、「切支丹宗門史」、ベッソン・コレクションや伝記にある「1637年10月5日に長崎役人の前に連れて行かれた」との記録が一致することが一点、次に「高鍋藩藩史備考巻六」に捕縛時の様子を記した「福嶋長田村磯辺の谷竹山の中にて崎田村善四郎谷底より煙立つを見及彼の谷へ立越見届し処僧壱人乞食壱人不審の族これ在るを見(中略)福島御役人庄屋差越されこれを捕う イタリア国の伴天連僧日本人の乞食随身これ有る也 財部(今の高鍋)へ注進公儀へ言上」とあり、Stafford著マストリリ伝中にも「Ils entrerent dans le bois, ou le Pere Marcel s’estoit retire; & au moyen d’une fume du feu qu’il avoit allume, ils le trouverent(マルセル神父隠れし処の森に入りて、火を点けたことによる煙で見つけ)」とある。切支丹宗門史(レオン・パジェス著)にも「日本人を一人連れて、山奥に入り込んで林の中に隠れていたが、焚き火をしたので煙の立つのを役人に見つかった」とあるので、二点目として「煙」が捕縛の動因との記述が一致する。このことからも捕縛の伴天連とはマストリリで間違いないであろう。ただ、忍びの身で焚き火などするものであろうかと疑問も湧くが。さらに付け加えれば、日向から長崎へ道中に関する「百人の兵士により護送された(200人、300人ともあるが)」との日欧の記述も合致する。

2捕縛時の情景

① 上陸・捕縛地点はどこか
 高鍋藩藩史備考巻六には「福嶋長田村磯辺の谷竹山の中にて崎田村の百姓善四郎(以下略)」とあり、隈江家記には「異記ニ云」としてこの件が詳述されているが、これによると「崎田浦ニ小船一艘破損仕候、乗衆八人浜エ上リ仕候ヲ翌日所ノ者共見付、不審成ル者ニ候間、堅ク番ヲ付置、本国ヲ相尋候処ニ、薩摩船ノ由申候(中略)然処ニ破損船ニ南蛮伴天連壱人、日本ノ切支丹ノカツタイ一人乗リ来リ候ヲ、破船ノ夜其所ノ山ニ隠シ置候ヲ、七月九日所ノ草刈共見付、代官ニ告来リ候条、翌十日山ヲ取巻キ、伴天連・カツタイ捕ヘ(以下略)」とある。
 長田村(永田のことか)と崎田村の違いがある故、もう少し調べたいとの思いで、崎田や永田の古老有識に聞いたが、遥か370年も昔の記憶は伝承にはない。しかも、入手した資料、特にヨーロッパのものはほぼ同じソースからの転載であるにも拘らず、詳細部分の記述が史料毎に異なる。例えば、マストリリが捕縛されたのはCUSO、CUSCO、CUTO、COUSO(当然言語の違いにより表記が異なる)の港に上陸して数日してとある文書もあれば、上陸の翌日とするもの等、混乱している。このため、従来の翻訳が正しいかどうかの正確を期すため、いくつか原書の写しを入手して、独自に翻訳してみた。マストリリの伝記は多くのものがあるが、ヨーロッパ各言語で著されており、しかも、古い印刷書体で「UはV、VはU、Sはf」と表記されており、印刷の滲みも多く、かなり骨であった。仏・伊語はよいが、西・葡語は360年程前の旧字体や文体であり、手に負えない部分が多いので、フジモリ元大統領のご縁で親しくさせていただいている、メキシコ在住のカレン・イシイさんの労を多とした。

 バルトーリの伝記(伊語)に「9月19日薩摩王国沖から東方に船を向け、大隅沿岸を航行して、ここから少し北の日向王国の地にある2番目の港の海岸に(以下略)」、スタッフォード伝記(仏語)には「マニラから来たシャンパンと称する大船(イスパニア船)を帰し、XIQUITO港で和船に乗り換え、11名の日本人一行の中に身を置いたが、捕まる心配があったのでCUSOの港に移り、(中略)そこで下船しアンドレ・コテンダと云う日本人信者一人と近隣の山中に隠れた」、さらに他の資料にも似た記述がある。ただ、港名の表記がXIQUISO、XIQUITO、XOQUISOと多様である上、日向王国の2番目の港とは、まるで判じ物である。XIQUISOはシキソ、ジキソ、ヒキゾ、CUSCOはクスコあるいはクソと表記できるが、先人の翻訳ではXIQUISOを「櫛ノ津か」と記しているものがある。 CUSCO、CUSOを「櫛ノ津」とすると発音が似ているので少しは納得するが、XIQUISO、XIQUITOが櫛ノ津とはいかがなものか。櫛ノ津ならば「櫛間院」の港とも考えられるが、XIQUISOとは見当もつかない。ひょっとすると金谷港遠見番所を平相国、市木のそれを相ケ崎呼んでいたというから、関係あるのかもしれない。XIQUITO(シキトと読める)であれば崎田(サキタ)の可能性が高いと推察する。
 秦恒平氏の小説「親指のマリア」には「寛永十四年九月十九日、小舟で薩摩の海岸にようやく漂いつくと徐々に九州の東海岸を北へすすみ、マニラから同行した一日本人信者とともに、日向(ひゆうが)の櫛ノ津ではじめて日本国の土を踏んだ──。」との記述も見える。他にXIQUISOをCHOKIZO(コキゾ)と記してあるものもあり、ますます頭を悩ますことになった。
 諦めかけていた処、鹿児島市で2005年5月に伊能大図の展示イベントがあり、出かけたところ思いがけない収穫があった。伊能忠敬が測量した各地のエピソードが書き込んであり、永田から黒井寄りの辺りに101番と番号がふってあって「崎田村之内虻ケ谷ニ寛永拾四年はてれん隠れ居申候」との注釈(典拠の記載なし)を見つけた。昔、磯平に住んでおられた古老に聞くと、崎田から海岸線に沿って都井方面に向かい永田、猿田、虻が谷、ナキリ、磯平、屋形の順に集落があったそうで、この「虻が谷」が彼の所であろう。一帯には昔船着き磯があり、嘗てここから木材や乾燥芋等を志布志方面へ搬出していたという。マストリリが土地の者にここは何という港か尋ねた時、地磯と答えた可能性はある。そのジイソがXIQUISO(ジキソ)の可能性もあるか。曲折はあったが、虻が谷は身を隠すには都合よい地形や海岸の近くであるなど、記述に近い合理性があることなどから、兎に角上陸・捕縛地点がどこであるか落ち着いたと休心するには至らないが、遠からずの感はある。

地図

② 捕縛時の様子
 高鍋藩記録、隈江家記やヨーロッパ資料であるパリ ベッソン氏・コレクションにあるイエズス会宣教師報告書、諸伝記等を基に物語風にしてみるとこうなる。
 『マストリリ神父はリスボンからインドのゴアを経てポルトガルのアジアの拠点マカオに辿り着いたが、鎖国令下にある日本にポルトガル船で渡る手だてが殆どなかった。 一刻も早く日本に行きたいとの思いでマニラに渡った。この頃フィリピンはイスパニア領(イスパニアとポルトガルの勢力争いを調停するため、教皇の斡旋で1493年、大西洋半ばの経線より東はポルトガル、西をイスパニアの所場とした。後年イスパニアは西へ西へと航海し、フィリピンを発見し所領とした。当初、日本やインド、中国はポルトガルの勢力下であり、日本に来航したのは殆どがポルトガル船で、イスパニア船が少なかったのはこのためである)であり、イスパニア総督に協力してフィリピン平定や海賊征伐に同行すること等で兵士の士気を高めて厚遇をうけた。また日本語の勉強を始めるとともに渡航の準備を進めた。どうにか日本へ行ってくれるイスパニア船を確保し、これに組み立て式の和船を積み、案内役の日本人信者らとともに(途中暴風のため台湾に漂着したが)、レキオス(今の沖縄)を経由、薩摩近海に到着、さらに崎田沖あたりで和船に乗り換えて仲間と共に寛永14年7月8日(グレゴリオ暦1637年8月27日)夜、虻が谷付近の海岸にようやく上陸することができた。烈しい風のため船が磯に打ち上げられ破損したため、その始末をしているところを土地の者に見つかってしまったが袖の下をつかませて一時難を逃れた(新井白石の西洋紀聞で有名なシドッチ神父も屋久島上陸の際、賄賂で逃れようとしたことが知られている)。翌日残りの仲間8人は役人に見つかったが、マストリリはアンドレ・コテンダ(籠手田)という乞食(カッタイ)の身なりをさせた日本人キリシタンと二人で山中に隠れていた。当初マストリリは将軍謁見を企図し、先ずは上方までの逃避行を企てたが、食事のため焚き火をしたところを丁度草刈りに来ていた善四郎という百姓に発見され、寛永14年7月9日役人に通報された。翌同7月10日は周りを大勢の役人に取り囲まれての捕りものとなった。マストリリが真剣な顔で祈りをささげていると、役人はなかなか手を出そうとしない。「召捕って下され」とマストリリの方から声をかけると慌てて役人が縄を手に走り寄ってきた。
 別に取り調べを受けた八人は、本国を問われ薩摩と答えたため福嶋代官黒水次右衛門により薩摩庄内へ積荷共々護送された(後日、この8名は薩摩から長崎奉行所へ送致されたと高鍋藩に連絡があったという)。
 捕縛後マストリリには荒っぽい取調べが続いたが、長崎へ護送すべしとの沙汰が下り、見せしめのため、泥谷監物、入江角右衛門(寛永20年福嶋唐船漂着事件の不行き届きの廉で江戸にて切腹)はじめ百人(二百、三百人との記述も見える)もの歩行足軽等により、日向から長崎まで引っ立てられた。寛永14年8月17日(1637年10月5日)長崎奉行榊原飛騨守、馬場三郎左衛門(当時長崎奉行は二人制)に引き渡され、数日に亘る過酷な拷問に耐えた後、同年8月29日(1637年10月17日)斬首処刑された。』

③ 賞銀
 高鍋藩藩史備考巻七には「善四郎賞白銀五十枚公儀ヨリ賜フ」とある。幕府は1622年から賞金によってキリシタン摘発を奨励していた。これを嘱託金というが、高札により周知され、都合4回書き換えられ順次増額されたという。高札では1633年(寛永10年)にはパードレ(伴天連・神父)が銀100枚、1638年(同15年)は銀200枚となっているが、善四郎の受取額は銀50枚と規定より少ない。しかし、当時米1石60匁であったそうで、銀1枚が43匁から計算すると銀50枚で米36石が買える。元和七年(1621年)の高鍋藩人給帳によれば藩重臣である入江角右衛門が200石、泥谷監物の禄高が150石であるから、かなりの賞金額であったといえそうだ。ただ、善四郎のように実際に賞金を受け取ったというのは殆ど実例を見ないそうで、福嶋からはるばる足を運んだご苦労賃ということか。善四郎はかなり幸運だったようだ。

3 マストリリ神父とは

 マストリリのフルネームはMARCELO FRANCESCO MASTRILLI(マルチェロ フランチェスコ マストリリ)。日本語訳にはマストリ、マストリジ、マストリリィとあり混乱しそうだが、西、葡、仏、伊など各国語でどう発音するかの違いである。マストリジは西語(スペイン)読み、LLIをジと発音するためこうなる。日本には馴染のスペイン料理のPAELLA「パエリヤ」が「パエージャ」と発音されるがごときである。
 彼はナポリ王国(この時期イタリア半島は、いくつかの王国等に分かれ群雄割拠の相を呈していた)マストリリ侯爵家の御曹司であり、かなりの有名人であったようであるが、奇行が目立ち、吉田小五郎著作には「奇僧マストリリの一生」とさえ表題される所以でもある。その奇行の一端も披露しつつ、マストリリを簡介する。

① 生い立ちと日本伝道の動機
 マストリリは1603年9月14日、父親は当時スペインが支配するナポリ王国の侯爵、母も貴族出身で、名家の中の名家の子息として生まれた。何不自由ない少年時代を過ごしていたが、16歳の時、周囲の反対を押し切ってイエズス会(スペイン人イグナチウス・ロヨラ、バスク人フランシスコ・ザビエルら6人が1534年パリで結成した修道会。耶蘇会)に入った。そんな中、31歳の時、とあるキリスト教の大祝典の装飾をまかされ、後片付けの段に職人に指図をしていた時に不幸が起きた。梯子上の職人が重い金槌を誤ってマストリリの右額に落としてしまい、当初は軽いと思われた傷が甚大で、死の境をさまようていた。医者も見放したという臨終間もない時、この枕辺に敬愛する聖フランシスコ・ザビエル(ザベリオとも記す)の霊が現れ、「死がよいか、印度布教がよいか」とマストリリに問うたところ、どうしても布教がしたいと答えた。それから何度もザビエルが現れついには傷痕も残らずに快癒したという。このことがあり、フランチェスコの霊名をさらに加えてマルチェロ・フランチェスコと名乗った。この頃切支丹禁令下の日本は、若き修道士達にとって熱病のように蔓延していた丸血留(MARTIRマるチィる、殉教者のこと)願望の恰好の舞台であった。日本に行けば確実に殉教者になれるとの熱い想いがマストリリにもあり、幾度もイエズス会会長に印度、日本への布教を願い出ていた。ザビエルにより奇跡的に救われたと感じたマストリリは日本布教を自分の使命であると信じ、尚一層熱心に印度、日本への布教実現に奔走し、ついに、1635年4月7日のザビエルの誕生日にポルトガルのリスボンを33名の修道士の長として出港した。12月8日に印度のゴアへ到着、念願であった、生けるが如しのザビエル上人の遺体と落涙の対面をし(今でもゴアのボンジェス教会に上人のミイラ化した遺骸を見ることができる)、資金を集めて、上人に相応しい立派な銀の棺を新調した上で、再びマカオへと船出した。

② 日本への船路
 一旦ポルトガルのアジアにおける拠点、マカオで日本行の船を探したが、状況が許さなかった。このため、1636年7月3日にイスパニア(スペイン)領であったフィリピンのマニラに渡り、イスパニア総督のフィリピン平定に協力することで厚遇を受け、どうにか日本行が実現の運びとなった。マニラでは、当時追放された日本人が多く住み、彼らから日本語を熱心に学び、さらには日本人に見せかけて上陸するための和船を建造してイスパニア船に積み込み、勇躍日本を目指した。途中嵐のため、台湾に漂着したが、どうにか同年9月19日薩摩沖に来航(上陸したとの記述もある)後、前述の捕縛に至るのである。

③ 奇僧と呼ばれる所以
 日本への布教を志した動機はザビエル上人が起こした病床夢枕での奇跡であることも然り乍ら、将軍への土産としてザビエル上人の遺骸から採った腸で作った丸薬を持参したことがあげられる。奉行所での取り調べで、「私は将軍様を耶蘇教に改宗させ、さらに日本全土を改宗せしめるために日本に来た。将軍様がこの薬を飲めばどのような病気でも治り、置いておくだけでも奇跡が起きる」と本気で将軍への取り次ぎを願い出たという。マストリリの死後、奉行所はこの薬を将軍に届けるため保存したというが
 その後どうなったかの記録はない。これらは奇僧と呼ばれる所以の証左であるが、ここに書けない数多くのことが他に書かれているのを見ると、「奇僧」の冠だけでは評しきれない人物であったことは確かなようである。

④ 殉教時の様子
 拷問といえば、このマストリリの拷問について言えば、取り調べにあたった馬場三郎右衛門らにとっても「想定」外であったようだ。最初は水責めと梯子責めが2日間。「天主様に捧げた身だ、存分に責めよ」と云うものだから、次には素裸にして焼き鏝で所構わず焼き、最後には陰部にも押しつけた上で再度水責めの後牢に入れられた。さらに過酷さが増し、1637年10月14日には刑場にて足首がやっと見える程の深い穴に逆さ吊りにされ、76時間が過ぎた。並みの人間なら、目や口などからの出血により1、2日ほどで死ぬらしいがマストリリには何の変化もなかったという。そこで首を刎ねることにし、首切り役人が2度刀を振り下ろしたがとうとう刀が折れ、別の刀の一撃でようやく首が胴体から離れた。その瞬間雷が鳴り、長崎中暗闇になった(江戸宗門改役の記録集、契利斯督記より)。遺体は信者に拾われぬよう、煙草のように切り刻まれて焼かれ、川に流されたという。なお、マストリリと一緒に捕縛されたアンデレ・コテンダ(籠手田)という者は信仰を捨てなかったので、共に処刑されたとある。

4 時代背景

 各大名にとって南蛮船が入港すれば貿易のうまみが増す。南蛮貿易の実益=南蛮船には伴天連が乗船していたことで切支丹容認の構図が出来上がっていったが、いつしか高山右近や大友宗麟などのキリシタン大名が現れるにおよび、階級制度と神の下の平等の矛盾が為政者による禁教への流れを創った。ただ、秀吉についていえば、平戸にいたポルトガル船を博多へ回航して見せよとの要請を、博多港の水深が浅いと断られことが禁教の発端であったそうだし、文禄5/09/06 (1596/10/27)マニラからメキシコに向かって航海していたイスパニア船サン・フェリペ号が土佐の浦戸に漂着する。この船のランダという按針が積み荷の没収に憤慨して「本国に頼めばいつでもこのような国は武力で制圧できる。また、世界にまたがる自国領の広大さを自慢し、それは宣教師が先ず教化し、その後軍隊を送って征服して得たものだ」と豪語したものだから秀吉がこれに激怒し禁教が加速したと。有名なヴァリニャーノはイエズス会の日本布教の名参謀長と評され遣欧少年使節団の立役者であったが、領主大村氏から与えられて1580年から一時期キリシタン領となった長崎に武器、弾薬を備蓄し日本への武力介入を企図し、また本能寺の変を画策せしめたのはその人であったとの説まである。このような話はオランダとポルトガル、イスパニアの中傷合戦の端緒であり、また所産であったとも言えようが、流れは徳川幕府のキリシタン禁令へと突き進み、歴史は崎田の善四郎マストリリ捕縛へと移るのである。

1549/08/15,天文18/07/22 イエズス会の宣教師フランシスコ・ザビエルが鹿児島に上陸する。
1552/12/03,天文21/11/18 [明の嘉靖31年11月18日]フランシスコ・ザビエルがマカオの沖の上川(サンシャン)島で病没。46歳
1587/07/24,天正15/06/19
豊臣秀吉が5箇条のキリシタン禁令を発布し、宣教師に対しては20日以内の国外退去を命じる。しかし貿易利害が絡んでキリスト教弾圧は徹底できなかった。 キリシタン大名高山右近の所領を没収。
1591/09/12,天正19/07/25 秀吉がインドの副王ドン・ドワルテに国書を与え、キリスト教布教の禁止を伝え、貿易を求める。
1612/04/21,慶長17/03/21 本多正純の家臣でキリシタンの岡本大八が、大久保長安の裁定で、詐欺の罪で火あぶりの刑に処せられる。家康はこの事件を契機についにキリスト教の禁止を命じる。
1614/02/01,慶長18/12/23幕府が正式にキリシタン禁令を出し、キリスト教の禁止とキリシタン弾圧の大方針を内外に示す。
1633/04/06,寛永10/02/28 幕府が奉書船以外の日本船の海外渡航・帰航を禁止する(第1次鎖国令)。
1634/06/23,寛永11/05/28 幕府が長崎に高札を立て、外国船の来航と奉書船以外の渡航を禁じる(第2次鎖国令)。
1635/07/12,寛永12/05/28 幕府が、日本人の海外渡航・帰国を禁止する(第3次鎖国令)。
1636/06/22,寛永13/05/19 幕府が日本人の海外渡航を厳禁し、ポルトガル人とその家族を海外追放とする(第4次鎖国令)。
1637/12/11,寛永14/10/25 島原半島の北有馬で、代官が農民に殺される。島原の乱の始り。
1638/10/27,寛永15/09/20幕府がキリシタン禁止令を諸大名・旗本に重ねて布告し、密告者に褒賞を与える。
1639/08/03,寛永16/07/04 島原の乱の反省から、幕府はポルトガル船の来航とキリスト教の厳禁を通達する(第5次鎖国令)。
1708/10/12,宝永5/08/29 イタリア人宣教師シドッチが武士の身なりで屋久島に潜入上陸し薩摩藩の役人に捕らわれる。

5 参考資料

「高鍋藩本藩実録」 宮崎県立図書館所蔵
「高鍋藩藩史備考六および七」 宮崎県立図書館所蔵
「隈江家記」 「宮崎県史 史料編 近世4」所載
「日本史」ルイス・フロイス著 柳谷武夫訳 平凡社刊
「日本切支丹宗門史 下巻」 レオン・パジェス著 岩波書店 昭和15年刊
「キリシタン大名」 吉田小五郎著 至文堂 昭和29年刊
「日南切支丹史」 茂野幽考著 ヴェリタス書院 昭和26年刊
「沈黙」 遠藤周作著 新潮文庫 昭和56年刊
「伊能忠敬測量日誌」千葉県企画部広報県民課編千葉県史料 1988年
「契利斯督(キリシト)記」続々群書類従、第十二宗教部(江戸宗門改役の古記録集。1639年~1658年に各地で発見されたキリシタンの統計が載っている)
湖(うみ)の本 創作37『親指のマリア』 秦恒平著 京都新聞社 1989年
「Historia de la celestial vovacion : missiones apostolicas y gloriosa muerte del Padre Marcelo Franco Mastrili 」 Ignacius Stafford著 1639年刊 (仏語版1640年刊) 筑波大学図書館所蔵
「Vida del dichoso y venerable Padre Marcelo Francisco Mastrilli」 Nieremberg Y Ottin著1640刊 筑波大学図書館所蔵
「Vita, e morte del Padre Marcello Francesco Mastrilli」 Leonardo Cinami著 1645刊 上智大学キリシタン文庫所蔵
「Honor del Gran Patriarca San Ignacio de Loyola. En Madrid, por Maria de Quinones」 NIEREMBERG Y OTTIN, Juan Eusebio著 1649刊 上智大学キリシタン文庫所蔵
「Compendio della vita, e morte del P. Marcello Mastrilli」 DANIELLO Bartoli著 1671年刊
「Relacion del insigne martyrio, qve padecio por la fe de Christo el Milagroso P. Marcelo Francisco Mastrilli」 Besson collection蔵 宣教師報告書簡 作成年不明(推定1600年代中) 筑波大学図書館所蔵
「Breve relacione del martirio del Padre Francisco Marcelo Mastrillo de la Compania de Iesus, martirizado en Nangasaqui」 Besson collection蔵 宣教師報告書簡 作成年不明(推定1600年代中)

マストリリ神父処刑の図(上智大学切支丹文庫所蔵本より)

   マストリリ神父処刑の図(上智大学切支丹文庫所蔵本より)

伊能忠敬日本大図展風景(都井岬が見える)

       伊能忠敬日本大図展風景(都井岬が見える)

マストリリ神父に関する イエズス会宣教師報告書XIQUISO、CUSCO上陸のページ(ベッソン・コレクションより)

マストリリ神父に関する イエズス会宣教師報告書XIQUISO、CUSCO上陸のページ(ベッソン・コレクションより)

CINAMI著マストリリ伝記見開き(上智大学所蔵)

      CINAMI著マストリリ伝記見開き(上智大学所蔵)

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