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ヨーガ・スートラ Ⅰ-3

tadā-draṣṭuḥ-svarūpe-avasthānam

Ⅰ-2 のスートラを受け、citta vṛtti nirodhaḥ の状態になると、どうなるかが説かれます。

1.  Integral Yoga: The Yoga Sūtras of Patañjali ー Sri Swami Satchidananda

  Then the Seer (Self) abides in Its own nature.


2. インテグラル・ヨーガ ー 伊藤久子訳

  そのとき、見る者【自己】は、それ本来の状態にとどまる。


3. 【新版】インテグラル・ヨーガ ー 伊藤久子訳

  そのとき、見る者【真我】は、それ本来の状態にとどまる。


4. 解説 ヨーガ・スートラ ー 佐保田鶴治

  心のはたらきが止滅された時には、純粋観照者たる真我は自己本来の態にとどまることになる。


5. 図説 ヨーガ・スートラ ー 伊藤武

  [心の活動の停止した]そのとき、見者(プルシャ)は本来の状態に安住。


6. ラージャ・ヨーガ ー スワミ・ヴィヴェーカーナンダ

  そのとき(集中したとき)、見る者(プルシャ)は、彼自身の(変えられていない)状態におちついている。


7. 魂の光 ー アリス・ベイリー

  これが成し遂げられたとき、ヨギは自分自身のありのままの姿を知る。

日本語では、見る者、純粋観照者、見者、と訳されている「draṣṭa」。
いったい、誰が見ているのか?

それは、Puruṣa、Jivātma と言われる 本来の自分自身 です。

わたしたちが日常生活の中で「これが自分」と認識している自分は、本来の自分自身ではありません。
わたしたちは、なにか物事を目の当たりするときに、今までの経験や思考の癖などによって判断していきます。

例えば、コップの中にお水が半分入っていたとします。
そのお水を見て、どう思うか?
のどが渇いていなければ、「まだ半分もお水が入っている」と思うでしょうし、夏の暑い日でしたら、「半分しか入っていない。もっと飲みたかったのに…」と思うかもしれません。
でも、事実は、目の前にお水が半分入ったコップがそこにある、というそれだけのことです。

このように、わたしたちは目の前の状況に対して判断することで、喜んだり、楽しんだり、苦しんだり、悲しんだりするのです。

citta vṛttini rodhaḥ の状態になったとき、私たちは目の前の状況に気持ちを揺さぶられることがありません。
Puruṣa そのものが、ありのままの自分自身でいられることで、物事もありのままに見ることができるのです。

svarūpe = 自分自身のありのままの姿

そこから、Svarūpa Sutra = 自分自身の本質を知るスートラ とも言われています。

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