中北部ツーリング 1375km (まとめと反省)
行ってから時間が経ってしまいましたが、ダナン→ハティン→ゲアン→クアンチ→クアンビン→トゥアンティン・フェを4日間で巡った1375kmのツーリング記事の総集編です。(距離はメーター読み)
以前にベトナム中北部でツーリグをしたことがありますがその時はほとんど豪雨☔
景色もよく見れず、転ばないように走るだけ&宿ではふやけた足の皮のメンテで終了しました😓 そんなわけで今回は「おかわりツーリング」へ。
幸い、4日間晴れの最高ツーリングとなりました。
ちなみに中北部は緑色のほっそいエリア、ダナンの北側です。
中北部について調べると,ベトナムのお札の顔でもおなじみのホーチミンさんの生家があり、戦争中はホーチミン・ルートとして良くでてくる地域ということで、ちょうど良さげな距離(700kmくらい)にランドマークがあるのでそこを目指し、途中の史跡を巡ることにしました。
まとめ!
Google map で経由した場所は8箇所しか入れられないのでざっくりですが、経路はこんな感じです。「水曜どうでしょう」でもおなじみのベトナム南北縦断!という企画をyoutubeなどでもたまに見かけますが、ハノイ〜ホーチミン市までが約1600kmくらいです。
中北部ってどんな所?
ベトナム中北部はざっくり
ゲアン省はホーチミンさんの故郷として有名。
ベトナム戦争で徹底的に爆撃され被害が大きかったエリア
地形的な理由もありベトナムの中でも貧しい地域らしい
東のエリアは砂地でほとんどなにもない。風力発電塔と空白の工業団地
西側半分以上が山で少数民族が住んでいて商店などもあまりない
山岳エリアの景色は最高!ただ道が悪かったりお店やホテルが非常に少ないので計画&準備が必要。
という感じです。詳細は以下、分割でNOTEにしましたのでよろしければ是非!
1日目
動画は取れていたの繋いだだけなので見苦しいかもですが現地の雰囲気ということで🎥
https://www.youtube.com/watch?v=HesufBZyots
2日目
3日目
4日目
帰ってきたときの感想は「無事に帰れたー!そしてダナンは美しい!!」でした。
機材と失敗談
今回持っていったのは
GoPro9, Insta360 Go3
FZ1000ii
DJI mavic mini 3 pro
GoPro12は充電したまま家に忘れてしまい、予備で持っていたGoPro9が活躍しました。準備は前日に完了していないと必ずコレやりますね。。。FZ1000iiはすぐ使えるように身に着けてなかったので出番が少なくもったいないことをしました。
中北部ツーリング / ベトナムの魅力
ニャチャンやクイニョンなど有名リゾート・観光地がある中南部に比べるとかなり地味な地域ですが、旅の中で印象に残ったのは
自然・景色!
南よりメシウマ
優しい人たち
ハティンの生ビールのうまさ※
でしょうか。ベトナム全体にどこでもこれは当てはまるので、今回も!という感じではありますが、やはり飯はハノイへ近づくほど美味しい、というのはあります。それと山地+細長い地形で川や海が近くにあるのでSUPを持ってくるのも良さそう?と気づきがありました。
↓は思わず止まって撮影したドンホイの橋からの空。
それと、米の収穫期なので各地で豊かな実りや稲の香り、収穫の風景が見れたのも良かったです。
一方で欧州旅行のような「ヒトが作ったもの、人類の偉大さ」のようなものは見つかりませんでした。これらはベトナムの永遠の過大なのかもしれません。
(こっから先はしばらく自分語りなのでパスして最後の方へお回りください。(笑)
旅の後半でしみじみ思ったこと
反省といいますか、今回の旅でしみじみ思ったことがあります。それは
「暗いベトナムのイメージ(戦争)は遠い過去」
ということです。ベトナムでは戦争の時代は大昔のこと、エコツーリズムが狙い目、と学びました。
今回訪れた場所では殆ど観光客はおらず、高齢者や地元のおばちゃんがお茶やジュースを売っているくらいの閑散とした場所ばかりでした。中にはそれすらない場所もありました。「へ〜、日本人?めずらし〜」とか「ほー、Youはなぜここへ?」とか「親戚の子が研修生で大阪にいるよ!」という反応が殆どで「しかし暑いね〜、これからどこへ行くの」と到着した場所については現地ではガン無視状態。未だに小学生が外国人に悲惨さを解説して回る広島とはエライ違いです。
現在のベトナムの平均年齢は31くらいで人口の殆どは資本主義に移行してからの人たちなので、遠い過去なのはまあ当たり前ですよね。
戦史跡地は「寂れきった」場所が多いのも当然で。
というのが今回のツーリングの感想でした。
ホテルも少なくて予定が立てづらいし、しばらく中北部はいいかな(笑
(ここから下はウルトラ脱線しているので戦争・歴史に興味ない方は飛ばしてください)
ベトナムに住んで感じる日本との歴史・情報の温度差🌡️
日本人は2024年時点で人口の過半数が50歳以上で思春期を30−40年くらい前に迎えた人が多くスマホやインターネット前に育っているため、本や映画、TVで情報を得た世代と思います。 多くの人が映画観へ行く世代・時代に米国のベトナム戦争映画ブームに遭遇しています。 おそらく日本人がベトナム=戦争!っていうイメージな理由はここではないでしょうか。(わたしはそうです)
ベトナム人にはこの時代はなく、今も映画館へ行くのは一般的ではないですし書籍も乏しいです。社会主義で検閲があるのでコンテンツは面白くないし、特に歴史物は厳しいと聞きます。検閲があるので歴史フィクションとかはダメでそうなると恋愛など私的な話が中心、たまに公開される歴史物の映画も毎回ダメ出し・批判で盛り上がりません。
そんなわけで、映画館で見れるコンテンツは殆どがドラマ、CGヒーロー、ホラー、アニメ物で、社会・歴史系はあまり見かけません。
ベトナム戦争映画ブーム🎥は外国文化
西側世界の「ベトナム=戦争・悲惨」な印象を決定づけているのは映画の影響が絶対的に大きいと思います。
アメリカ映画のベトナム戦争映画ブームは大きく2波あり、1980年前後と1990年までで、その後もたくさん作られています。戦争映画は多くが大作で巨額の予算をかけて制作され広告も大々的に行われます。 後半では1998年のシン・レッド・ラインのようにオールスターな感じの映画まで制作されています。
ディア・ハンターや地獄の黙示録、ランボーの存在は今も大きく映画ランキングでは常連、以下のリストは一部ですが1つも見たことがない映画ファンはそう居ないのではないでしょうか。
ディア・ハンター (1978年)
ドッグ・ソルジャー (1978年)
地獄の黙示録 (1979年)
ヘアー (1979年)
ランボー (1982年)
地獄の7人 (1983年)
トワイライトゾーン/超次元の体験~第一話 TIME OUT(1983年)
地獄のヒーロー (1984年)
ハノイ・ヒルトン (1987年)
ハンバーガー・ヒル (1987年)
フルメタル・ジャケット (1987年)
カジュアリティーズ (1989年)
7月4日に生まれて (1989年)
ブルース・ウィリス/イン・カントリー (1989年)
ちなみにわたしはゲーマーでありゲームクリエイターでもあったので有名どころはすべて見ていますし、なんなら子供の頃は友人にハードコアなウォーゲーム好きもいて、かなり影響を受けて育っています。 当時は何事も2極対立がテーマにあり白黒・勝ち負けだらけでした。
ちなみに、フォレスト・ガンプでは結局ベトナム戦争部分をうまく脚本で消化できずに、無音でセリフをなくす演出で落ち着いたというエピソードがあります。
ベトナム人が知らないハリウッド映画
しかし、当時の国情や共産国な事情の情報統制もあるでしょうか、これらの映画はベトナム人は見たことが無いどころか存在も知らないのが普通です。
冷戦終了までは赤いカーテンで多くの国と分離されていたでしょうし、いまも厳し目の情報統制があったり、情報が偏る傾向は強く残っています。
そもそもコンテンツの主流が敵国由来なのでそうでなくてもベトナム映画は心情的に無理すぎるでしょうが、現在も公開作品は偏りがあります。
また今現在でも米国はかつての敵国で、たとえば銀行口座を作るときには「米国及び米国資本と関係がない」宣誓リストにチェックの上、サインさせられる”風習”が残っていてめんどくさかったりします。
日本人の戦争観との違い
そもそもですが、日本人とベトナム人は戦争についての感じ方、認識はかなり違うようです。
ベトナム人に歴史や社会のことを聞くのはご法度なようで、頑張ってさぐってみても体系的な知識・哲学は無くあくまで枝葉末節の話。特に戦争に関してはその雰囲気に闇を感じます。
工業国かつ民主主義の国民国家で、自分から積極的に軍国主義にまでなって世界大戦にまで発展させたことがある日本人にとっての戦争は、無関係の人が少ない「自分たちに功罪がある」ことです。 未だに当時を懐かしんだり正当化する人もたくさんいますので良い思いをした人たちもそれなりにいたはずですし、いまも工業分野で強い背景には戦前からの極度の工業投資がありました。
一方でベトナムにとっては独立間もなくフランス軍が舞い戻りソビエトの後押しでベトナムから追い出すも、米国が乗り込んできて戦争に。当時はProxy War(代理戦争)と言われ冷戦が生んだ最大の大惨事です。
ただその構造を理解していたベトナム人は当時、どのくらいいたでしょうか?おそらく今でもそんなにいないと思います。
当時人口の殆どが農民で近代以前の時代であったベトナム人にとっては台風のように「降って湧いた」災害のような気分が大きいでしょう。しかし禍々しさや悲惨さは外のものでベトナム自体とは別にあるようで笑顔て明るい国民性にもよく表れています。 これは戦争の禍々しさが染み付いている日本との違いを強く感じる所です。
ベトナム独立後の3時代
日本人よりもベトナム人のほうが「戦争は大昔のこと」とするのは、知識の違いとは別に、時間の感覚の違いも大きそうです。
ベトナム現代史は 戦争時代(対仏、対米、ポルポト征伐、対中国)が1980年ごろまで続く独立混乱期、1980~2000年以前頃までは世界最貧国の時代、その後が高度成長期の20年、という大きく3つの時代があり、現代の人が認識しているベトナムは高度成長期のベトナムと思います。平均年齢が若いので多くの人、とくに都市部では高度成長期の前の時代は「子供の頃」か「生まれる前」でしょう。戦争時代が「子供の頃」は50歳以上ですがあまりにも多く戦争の犠牲になり、そもそも人口がかなり少ないという悲惨な現実もあります。なので「は?戦争??なんでまた今頃?」という反応なのは当たり前なのでしょう。また,戦勝国であり被害者でしかないので反省の必要もないので未来だけを見ているようです。
そな訳で、日本で育ったわたしが知るベトナムはここで数年暮らしたあとでも、こちらの人の「大昔」のベトナムの「印象」なのだと考えさせられる旅となりました。
戦争で最も大きな被害を受けたと思われる、墓場だらけの中北部でもそうなのですから、ダナン以南で輸出用商品作物の栽培が盛んなエリアやFDAで強烈な高度成長&拝金で大忙しな20数年を歩んだハノイ・ホーチミン市周辺の人が、大昔のベトナムを忘れ去る(忘れようとしている)のは当然ですよね。
古いままの自分を発見
そんなわけで旅の中で、停滞した日本の30年を生き、認識が古いままの自分を発見することになりました。本当に残念ですが事実です。
ベトナムでのツーリングや観光は、もちろん風景や道、人との出会い、知らないところへ行くのが一番の目的ではあるのですが、どうしてもコンテンツが少ないので目的地・有名な場所となると戦争関連か仏教・新興宗教?な大きなお寺位しか無く、行く先々で「戦争ポルノ」「戦争2次消費」な残念な気分はついて回ります。 これは塩野七生さんの本を読み漁り勢いで行ったローマのフォロ・ロマーノの残念さと似たものがありました。作品では生き生きとしている過去は現在には存在しないのです。
当たり前のことなんですが 「これ未来の何に繋がってる行為?」となりました。誰のためにもなってねーし!みたいな。
日本は高齢化で子供が少ないので、余計に過去の話ばかりになりがちですが、「戦史ツアーはもうやめよう」と旅の終わりに思うようになりました。(旅はやめませんけども) プラスに考えれば歴史観光について、長い間くすぶっていた違和感の本質が発見できたのはこの旅の大きな収穫となりました。
ベトナムでのバイクツーリングはどう?
さんざん走り周り、はしゃいでNOTEに書きちからしておいてナンですが、個人的にはおすすめしません😅。理由は
かなり危険 (大型車優先でマナーが底辺)
日本でも似た景色を楽しめる
インフラ問題。パンクなどアクシデント、毒虫などのリスク
警察の賄賂問題(もし止められたら…)
どうしても、なら二人乗りバイク移送サービスとかローカルエコツアーがおすすめ
など。
バスやトラック優先で、ひっかけてバイクで人が死んでも数十万支払って終わり、というお国柄ですし山間部で道具の用意なくパンクなどをすれば自力で回復は不可能です。 今回は100kmほどガソリンスタンドがないエリアもありました。
ベトナムは縁故社会で家系図上で遠くのつながりまで家族だったりするのですが、現地の人はこうした血のつながりから広域で助けを求められる環境を自分で模索します。 逆にその「安全圏」の外にはあまり出ないようです。
しかし外国人は言葉もコネなく誰にも頼れないので、なかなか問題回復は大変そうです。今回も「帰りの山道700kmかぁ、、、」となってからふと不安がよぎりました。リスクの割に得るものが微妙すぎやしないか?と。
バブルの頃には勘違いして「貧国の現実を見て目を覚ませ」みたいな意識高い系の話もありましたが、現在の日本は十分に貧乏であり、かつ先進国でもある1粒で2度美味しい国?ですし逆に海外はどんどん発展しています。 また、日本の縦に長い国土には様々な地形や景色が詰まっています。 ベトナムなど海外ツーリングは「やることはやったし、そろそろ人生もまとめかな(死んでも悔い無し)?」くらいなら良いかもですが、責任や未来がある方は日本で安全に楽しむのがおすすめと思います。歴史が浅い貧国なのでご当時グルメとかもないですしね。
次は近場の「ポム王国」を目指す?
とはいえ帰国前にもう少し見とこうかな、という色気があり調べているとそんなに何百キロも走らなくてもダナンの近くに秘境があるという情報が。西130km、ラオス国境のチュオンソン山脈にある村がそれです。
少数民族の人たちが多く暮らす地域で標高は1000m以上、高い場所で1400mという山岳民族のコミューンで、エコツーリズム
戦時中は枯葉剤を散布され荒涼とした場所だったそうですが、現在は自然が蘇り人々が暮らしているそうです。
ハンバーガーヒルズ跡地へ行ったときのツーリング記事
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