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シンポジウムやプレゼンの効果をあげる4つの問い

昨年にFBに書いたけど,なんだか得るものが少ないシンポジウムや講演会,プレゼンに共通する問題とその回避方法を整理したので転載する。​

シンポジウムや講演会(プレゼンも)は聴衆が多かったり,質疑応答がそれなりにあれば「成功・ある程度は成功」とされるケースが多い。聴衆側も主催者側やその場の「なんとなく成功」という感覚に引きずられるし,そうでなくても日本では声に出して「期待外れだ」という人は少ない。

でも次にあげる経験があれば,期待外れのシンポジウム・講演会に参加したんだなと言えるし,主催者側も失敗として振り返ることで学びが得られる。

1… シンポジウム・講演会の標題となんだか違う
2… なんだか色々と聞いた・学んだような気がする
3… で,どうだった?と言われたときに3分程度でまとめられない

2018年11月に上智大学グローンバル・コンサーン研究所主催のシンポジウムを聴講した。東京大学大学院教育学研究所の組織も共催しており,テーマにも強い関心があった。・・・ただ,結論から言うと期待外れだった。

  経験上,日本では批判も非難も一緒くたにされることがある。だから書くべきではないかもしれない。シンポジウム・講演会を開催するたいへんさもよくわかる。
  でも,「素晴らしいご報告をありがとうございました〜」的な言葉が響くのは空虚だ。その場が変化を求める場であれば尚更だ。だから,何がどう良くなかった(期待外れだった)のかを整理しておく。

  研究発表などの研究的営みや,新たな視点を伝えるためのシンポジウム・講演会やプレゼンは,次の4点を抑えなくてはならない:

1… What is the point? 要点は何か?
2… Who says? (学術的背景に照らして)学問にどう貢献するのか?
3… What’s new? 何が新しいのか(なぜ知る・聞くべきか)?
4… Who cares (So what)? だからどうした?

  米国時代は4番目が最重要と繰り返し指導された(ちなみに現職のOECDの研究プロジェクトでも4番目が重視されている)。これらの問いに応答するには,そこに「相手」がいることを念頭にしなくてはならない。単に答えるのではなく,相手を的確に想定し,想定した相手に向けた応答を用意しなくてはならない。
  米国での博士課程の第1次諮問(これに合格して初めて博士研究を継続できる)では,この4点を確実に抑えた論述を規定時間までに執筆できるかを3回に分けて審査された。それほど重要な点。

  先のシンポジウムは,残念ながらどの問いにも応答していなかった。

  上智大学の澤田稔先生のご報告は,これまで継続して訪問されてきたアメリカの公立のチャータースクールの紹介に終始していた。
  繰返し訪問して信頼関係を得てこられたことは,本当に素晴らしい。その学校が実践する教育の特徴を「民主主義・コンピテンシー・インクルージョン」に求め,その学校の日常からそれぞれの表象を詳しく紹介しようとされたのもよくわかる。
  ただ,紹介された事象のそれぞれは,アメリカのどの公立学校でも観察できるものにとどまり,それぞれの事象を構造的に掘り下げて,その学校がなぜ特別なのかを示すことはなかった。
  おそらく,アメリカの学校の様子を伝えたいと考えられたのだろう。そのために「アメリカの学校は日本とは違う」と言う凡庸なメッセージになってしまったのだろう。
  なぜその学校を継続的に観察するのか,なぜその学校の教育実践が意味を持つのか,そしてなぜそこに注目するのか(先の問いの#1, 2, 3)が失われ,そのために#4の「だからどうした」が伝わらなかった。

  次に,先に紹介された学校の校長先生が登壇。とてもわかりやすい英語を話す知的な女性。ただ,主催者側が「テーマ」を伝える際に注意を怠ったのではないかと実感。
  シンポジウムの案内は「Lessons from challenges…」となっていた。日本語なら「試行錯誤からの学び」かな。このために,わざわざアメリカから招聘された方なのに,学校での日常的で個別具体的な「ストーリー」の紹介に終始した。それぞれの「ストーリー」は面白いけど,それらの「ストーリー」を体系化するディスコースは何か…と言われると,??となる。これは大変残念。

  こういう時に問われるのが指定討論者の能力。シンポジウムのテーマにある「民主主義・コンピテンシー・インクルージョン」が表面的にとどまるなかで,これまでの報告(話)を,どうテーマに引き戻すか。報告を受けてどういうテーマを引き出すか。指定討論者の双肩にかかっている。
  しかし,残り時間が1時間に満たないにもかかわらず,指定討論者が12個も質問を並べる。それもそれぞれに一貫性がない個別具体的な質問。「So what?」を導き出す問いではない。この時点でシンポジウムが完全に期待外れになることが確定。

  聴衆側にいた自分は,もうシンポジウムのテーマなんてどうでもいいから,このシンポジウムの案内をみて来場した方々が,何を感じて,何を得たのかについて,その本音を知りたくて仕方がなかった。2時間半も話を聞いたよね。で,何を得たの?で,どうするの?・・・「へ〜」以上の何を聞いたの?

  主催者側にも本音で聞けるなら,「これだけ人を集めて,何を一番伝えたかったの?」

  指定討論者にも聞けるなら,「で,何が本当に知りたかったの?」

  僕は一つ学んだ。もしかしたら,日本では結論を求めない漠然としたディスコースがほんとうに求められているのかもしれない。もしそうならば,僕が日本で執筆する原稿や,講演・議論で想定する聴き手を大幅に見直さなくてはならないという危機感。

  ・・・で,最後に1つ

  全体を通して,この紹介された学校が「素晴らしい教育」をしている「良い学校」という前提があったように思う。でも,何をもって「素晴らしい」としているの?教育理念?学校建築?教師の姿勢?教育研究において,「良いモデル」を紹介するディスコースは,眉唾ものだということにそろそろ気づく必要があると思う。OECD等がベンチマークとして示す「良いモデル」は,その背景事象を検討するための入り口だけど,日本でよく耳にする「良いモデル」は模倣の対象として語られるケースがずいぶんあるように観察している。それって・・・ちょっと考えると無理筋だよね。

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