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商品としての学力ー塾産業と学校教育(1)

オーストリアのウィーンに到着した。ウクライナでの戦争のために片道14時間のフライト。日頃の行いの悪さか、僕の席だけ機内エンターテイメントシステムが故障していた。本も読み終わったので、仕方なく携帯で以下を書いた。

さて…

塾(塾産業)が学校教育に与える影響については、私たちが想像するほど十分に議論されていない。議論が量的に不足しているのではなくて、質的に不足している。

「学力格差」の要因として塾を捉える議論や、塾産業(また、塾産業が応答する受験システム)が学びを歪めるという主張は数多ある。それらの議論の多くは、塾産業が公教育を歪める側面を批判する一方で、不完全な学校教育を補完して子どもの学びと成長を支える調整装置としての塾の役割を評価する。ただし、それぞれの議論は交わることなく併立している。

漠然とした《学力》の認識

学校教育と塾では、それぞれの役割と目的が異なるとされる。その一方で、塾が不十分な学校教育を補完するという考え方が共有されていたりする。

問題なのは、公教育システムで考える《学力》と、塾産業が学歴や狭義のキャリア市場に照らして指向する《学力》とを明確に区別して意識化する質的な議論の圧倒的な不足。

塾は学校を補完するといった主張や、上級の学校に進学するための知識や技能を塾では(学校教育より)効果的・効率的に修得できるといったレトリックは、学校教育の《学力》と塾が約束する《学力》の無境界性(境界の曖昧さ)を表している。

それぞれの教育実践が目的にする《学力》の実態が無境界的と言うことではない。私たちの言葉に現れる《学力》が、学校教育の文脈と塾産業の文脈とで無境界的である(差がない)ことを意味している。

「塾が学校教育を補完する」とか、「塾へのアクセス機会が学力格差を助長する」と言う表現は、そこで言及されている《学力》が塾産業が約束するものなのか、学校教育が目的とするものなのかを明確に区別していない。また、そうした区別の必要性すら認識されていないかもしれない。

商品としての学力

塾産業の学力は《商品としての学力》と定義できる。この学力は、サプライヤー(提供者)とコンシューマー(消費者)の関係に基づく個別的な商取引で合意されたものであり、商品として交換される学力の価値について双方の間に予め合意がある。

言い換えれば、《商品としての学力》は、個人的な利益の追求を目的にする功利的な性格を持つ。商取引上の合意があるため、その取引の成否を可視化して結果のアカウンタビリティを求めるために、そこで取引される学力は交換可能かつ測定可能なものであることが重視される。こうした学力は、交換できること、測定できること、分かりやすいことに価値を置いている。

つづきは後日

この先の議論では、学校教育と塾がそれぞれに目指す《学力》の違いや、それぞれの役割の明確化を進めるつもりである。これにより、教育全体の質を向上させるための新たな視点が得られると期待している。


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