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ディスコースについてー塾産業と学力

思いつくままにこの2日間で文章化したもの(昨日・一昨日のNoteの記事)を、改めて整理してみた。

以下、要旨:
公教育に塾産業が与える影響の議論は、塾産業の是非や功罪に集中しがちであり、それぞれが目指す学力の意味とその違いに焦点をあてる議論は少ない。塾産業が能力主義を助長し、社会的不平等を結果的に合理化して正当化するという教育社会学に多くみられる批判に対して、教育行政等の文脈では不適格校の教育を補完する役割が評価されたりしている。学校教育と塾産業の議論は文部科学省と経済産業省という異なる監督官庁の枠組みにも影響されており、それぞれの文脈が重視する学びとその目的は異なる。したがって、教育の文脈に閉じた議論に建設的な視点を期待することは難しい。教育の議論と営為としての教育の議論が持つディスコースの違いを理解し、文脈横断的な視点から議論を深める必要がある。


是非と功罪の議論がもつ曖昧さ

公教育に塾産業が与える影響についての議論の多くは、塾産業の是非や功罪を論じる一方で、それぞれが目指す学力の意味(とその違い)は曖昧なままであり、その曖昧さに焦点をあてる論考は少ない。

教育社会学では、塾産業が受験システムを利用した能力主義(meritocracy)を助長する一方で、家庭の経済的条件や居住地の地理的条件が教育機会に与える影響を過小評価して社会的不平等(格差)の再生産を(結果的に)合理化・正当化する側面を批判する議論が多い。これに対して教育行政学等では、公正な教育機会の提供に不足する不適格校の教育を補完する機能や役割を塾産業(及びその他類似のNPOなど)に期待して評価する議論がある。

これらの議論は、公教育としての学校教育との関係に照らした塾産業の是非と功罪を論じている。議論の過程で、学校教育と塾産業が目指す学力の意味の違いも言及されるが、そこに焦点をあてて論点にする議論は少ない。

同じ言葉がもつ違う意味

公教育である学校教育の監督官庁は文部科学省であるのに対して、塾産業は経済産業省の管轄にある。したがって、学力をめぐる議論は、教育行政的には文部科学省の枠組みにあるが、市場や産業的な課題との関係で議論される場合には経産省的な枠組みを反映する。それぞれの文脈が用いる《学力》は、言葉は同じでも、その言葉を認識して意味を定義する枠組みには大きな違いがある。

このため、公教育に塾産業が与える影響の是非や功罪について、教育の文脈に閉じた視点で議論することは不毛と言える。教育の文脈で教育の本質や教育が目指す学力とは何かを検討する議論は極めて重要である一方で、《営為としての教育》を教育の文脈に閉じた視点で認識したり理解したりすることには明らかな限界がある。

教育の文脈の内側で塾産業の是非や功罪を議論することは易しい。しかし、公教育である学校教育に塾産業が与える影響の議論は、それぞれ教育活動の学びが目指す《学力》に合理性を与えるそれぞれの文脈の違いを認識した上で、文脈横断的に働く力学を議論の対象にする必要がある。

これはなかなかにたいへんな作業で労力を要する。その一方で塾産業の是非や功罪の議論は、事象とその問題を単純化して示すことも易しく、そのうえに世間の関心も得易い。このために、文部科学行政の文脈は、塾産業が存在しないかのように学校教育の議論が展開され、経産省的な文脈は市場と産業のニーズに照らして教育が目指す学力を定義することを自明であるかのように議論する傾向が顕著である。

ディスコースという視点

それぞれの文脈が共有する認識を実態として無批判に受容する言説空間を「ディスコース」という。文科省的な文脈で学力を認識する教育のディスコースと、経産省的な文脈で学力を認識する市場と産業社会のディスコースとは、それぞれに《学力》という言葉を用いるものの、それぞれが《学力》に与える意味と役割は同じものではない。

文部科学省が策定する学習指導要領は、日本の学校教育の関係者や教育研究者が文科省的な教育のディスコースを構築することに貢献している。そのディスコースがアメリカ的な教育のディスコースと異なるのに似て、市場と産業社会のニーズに照らして教育が目指す学力を構想する経産省的なディスコースとも異なる。

全国の小学校、中学校、高等学校などの教育機関で教える内容や水準を定める学習指導要領には、《塾・塾産業》に関わる一切の言及がない。文書の性格から、塾産業とその影響に言及がないことを当然として疑問にすら思わないかもしれない。

しかし、「児童や学校、地域の実態及び児童の発達の段階を考慮し〜」(小・総則p.19)という文言を忠実に実践とその計画に反映するのであれば、塾産業が学校教育とその諸活動に家庭や地域社会を通じて与える影響を考慮しないのも不思議な話だろう。これと似て、市場と産業社会のニーズに照らして教育を認識するディスコースは、学習指導要領の目的である全国で均質な教育を提供し、地域間での教育格差を縮小することについて、憲法や関連法が示す文言以上に意識化することに積極性を示さないだろう。

学力にしても、教育の目的にしても、両者のディスコースが何を優先して重視するのかには違いがある。任意の事象やシステムの是非や功罪に焦点化する議論は、ディスコースの違いを言葉や認識の違いと理解してどちらかを批判・否定することで、もう一方を評価・肯定する。ディスコースに注目する議論は、任意の事象やシステムを合理化する認識や構造に焦点をあてることで、より高次の視点から事象とシステムの理解を図る。

まとめ

公教育である学校が目指す学力と塾産業が価値を与える学力の議論も、その議論を《公教育のディスコース》に照らして行うのと、《営為としての教育のディスコース》に照らして行うのとでは、議論の展開のされ方も予期される終着点も異なり、双方のディスコースを横断する建設的な認識や理解の創造は期待できない。

教育を対象にする議論は、しばしば議論の対象をめぐる是非と功罪(または有効・無効)の議論の終始する。これは、そこで行われている議論が、マクロな《(公)教育》を対象にするのか、ミクロな《営為としての教育》を対象にするのかを区別して考える習慣・訓練が極めて乏しいことに要因がある。

学力や教育の目的をめぐる異なるディスコースを意識し、それぞれのディスコースが事象に合理性を与える文脈の構造を分析することで、ディスコースを横断するより高次の視点からの議論を展開することが求められる。

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