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幸福論


何がしたいか、何ができるか、何が自分をそうさせるのか。
これを考えることは大事なことだと思う。




何をしたくないのか、何ができないのか、何が自分をそうさせてくれないのか。
それって考える前にはなからわかってることなんだと思う。




考えたところでやらないし、したくないことや、できないことは考えても結局したくないことだし、やろうとしなかったことだ。できないことなんて別にないと思う。やったことがないだけ。やりたくない理由としない理由を探すことに時間を使ったところで、どうせやらないし、しないと思う。でも、やってみないとわからないことのほうがこの世の中多いのは確かだ。

'やりたいこと'、'したいこと'のためにやりたくないことと、今までできなかったこと、やったことがないことをやろうとすることは、やりたいことのために挑戦しているんだから、どっちにしろ結局やりたいことをしてるんだと私は思っている。この経過はやりたいゴールのために必要だったことなんじゃないかな、と




したくないこと、できないこと、させてくれないことの中で、私が1番嫌いなことは何が自分をそうさせてくれないのかを考えることだ。なんだか自分の人生を他人のおかげであり、他人のせいにしている気がするからだ。


こんな考えしてたら、どこかの誰かに『さぞかしお前は自由に生きさせてもらって、幸せな人生送らせてもらったんだろうな』って言われるかもしれない。たしかに、自由に生きさせてもらったかもしれないし、たくさん幸せにしてもらったんだと思う。でも、その言葉の響きこそが私が人に幸せにさせてもらって、あなたの人生が自分以外の他人の力によって不幸せなように聞こえる


同じ人生歩んだって、自分が今まで経験したことや、元々の性格も含めて自分だし、あなたにとって辛い苦しいと思うことも、私にとっては幸せかもしれない。私にとって不幸だと感じることも、あなたにとっては幸せなのかもしれない。
人は多かれ少なかれ、大なり小なり、傷を負いながら生きているし、幸せそうな人も何かを乗り越えて今、幸せに見えるのかもしれない。

自分ですら自分のことが分からない時があるのに、他人のことが100%分かるわけがないのだから、人と比べてそんな皮肉で揚げ足をとるようなこと言うのはやめないかい?と思う。私に、君に、何がわかるんだい?そう思うならそうしてな?"って思えてくる。


自分の幸せは自分のベクトルで考えればいいし、他人がこうだからとか、別に関係ない。それでも、どうしても他人の評価や目が気になってしまう気持ちはわかるし、他人と比べて自分が惨めだと感じてしまう時があることも共感できる。ただ、気持ちが沈んでいる時こそ、人の悪いところや、自分の悪いところを探すのではなく、あなたが1番あなたらしく幸せになれる方法を探して、そのために一生懸命になってほしい。少なくとも私はそう思う。


自分は何がしたいのか、自分は何を言いたいのか、自分と他人に何を伝えたいのか。
正直、自分が自分に偽ることが1番キツいし、モヤモヤと晴れない感覚がある。


自分の幸せを人のベクトルで考えちゃダメだ。自分の機嫌は自分でしか取れないし、自分の幸せも自分でしか掴めないのだから。

大切な人の幸せそうな姿を見ることで自分が幸せになる人もいるし、人を幸せにさせることが、自分の幸せだと感じている人もいると思う。

ただ、自分の中にないものは他人にできないし、あげることはできないと私は思っている。


幸福の話をすれば、自分が幸せだと思えない時に人を幸せにする余裕も時間も考えるキャパもないわけで、そんな自分がズタボロの時に人を幸せにすることなんてできないと思うのだ。例えるのであれば、空っぽの冷蔵庫からは料理することなんてできないようなことである。でも死ぬほどお腹が空いていたらどこかに食べに行くにしろ、スーパーやコンビニに買いに行くにしろ、人に頼むにしろ、自分の空腹を満たそうと行動するでしょ?そんな感覚。幸せも愛情も同じだと思う。



そもそも、ちっぽけなことすぎて、
当たり前のことすぎて、
気づかないことの方が多いけれど、

"今いる周りの大切な人たちだって、あなた自身が一歩踏み出したから、あなたの周りにいるんだよ"と切に思う

無意識だけど、自分がその時、自分にそうしてあげた(くれた)おかげで、大切な人を見つけることができたんだと自分を肯定してあげればいい。

21歳の私は少なくともそう思っていて、やはり幸せゲージが0のまま人のゲージを上げることなんてできないし、最終的なことをいえば、自分のゲージを上げるためには自分でどうにかするしかないってこと。


自分がひどく落ち込んで、ドン底で、悔しくて、寂しくて、辛いとき、手を差し伸べてくれた人の言葉を聞こうとすることも、その人と会おうとすることも、好きなことをしてリフレッシュしようとすることも、ちゃんと自分のために行動しているからだし、自分のためになれていると思う。



自分、何もしてない、できていないと落ち込まないで、何もしてない人なんていないから、

"ちゃんと頑張れてる、自分偉いなぁほんと"っていう気持ちを自分が肯定してあげることが、一歩一歩自分への自信につながって、できないと思って諦めてたことをやれる気がする!って思えるようになって、挑戦するようになったら、どうせ知らない間にできてるから大丈夫。



人の目を気にして挑戦できない時は"いやぁ、どうせみんなそんな見てねぇし、覚えてねぇから大丈夫大丈夫!"って思ってみてほしい。当時あんだけ必死になって覚えようと勉強してた中学校のテストに出てくる偉人の名前だって忘れるくらいなんだから、人ってあんまり覚えてないものである。

だけれど、自分が幸せになるために、人を不幸にはしないでほしい。それは一時的な幸せであり、本当の幸せではないから。




生きていれば、幸せなことも多いけれど、正直辛いと感じることも多い。それでも、あの時死ぬほど辛いと思っていたこと、鋭く刺さる痛みをあなたはどれくらい覚えてますか?

辛くも鋭く刺さる痛みではないけれど、やりたかったのにやらなかった後悔の方が私にとってはべっとりこべりついてモヤモヤする材料の一つだ。『やっとけばよかった』『なんでしなかったんだろう』なんて言葉はただの後出しジャンケンで、今だから言えることである。
刺さったものを取り除くことは割と簡単だけれども、こべりついた油汚れを落とす方がトゲを抜くよりよっぽど難しい。危ない橋は渡らないって言葉もあるし、たしかに題材によっては渡らない方がいいこともある。だけれど、やりたいと思ったことはやっとけ、まぁその責任は自分にあるけどな、人のせいにだけはすんなよって(まーた、話がずれたよ)


毎回書くけれど、これは本当にただの今の私の気持ちを書いただけのもの。これから先の将来がどんなものになって、どう過ごしていくのか。いつまで自分が存在するか、いつしなくなるのかも分からないのだから、何をこれから思うか、考えるか、感じるかなんて当たり前のように変わるはずで、未来の自分は何を考えているのかなんて分からないけれど、今を生きている自分はそう思う


最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

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