見出し画像

10人中の1人に目を向けず、9人と愛を循環させる〜心の穴を塞ぐ処方箋〜


私にはまだ塞がっていない心の穴が空いている、と感じています。


心の穴がもともと小さいか、または幸いにして大して空かずに済んでこれた人は、自分の悪口が書かれたものを見たり、また他人から聞いたりしても、一瞬はハッとしても、いや少しの間は傷ついたように感じても、まあ流していける、と感じます。


が、私はそのようなことが起きたとき、ズドーンと元々穴が空いているがゆえ、その穴にここぞとばかりに落ちていきました。


若い頃はもっと大きな穴(私は母から愛されていない、私は父から愛されていない=誰からも愛されていない)を抱えていたので、ぽっかり空いた空洞の体を、なんとか人並みに見えるよう、いや両親の愛を獲得するため、人並み以上に見えるよう動かしていた、と感じます。


その大穴は、ツギハギのパッチワークのごとく長い時間をかけて修繕してきていますが、まだ空いている箇所を塞ぐ気力も落ちるくらい、1人の方からの行為に落ちていました。


が、冷静に考えたとき、10人いたとしたら、たった1人の人の行為に私はえらいエネルギーを使っていた、とハタと気づきました。


10人の人がいるとしたら、そのうちの1人はどんなことがあってもあなたを批判する。

あなたを嫌ってくるし、こちらもその人のことを好きになれない。

そして10人のうちの2人は、互いに全てを受け入れ合える親友になれる。

残りの7人は、どちらでもない人々だ。


―(ユダヤ教の教え、『嫌われる勇気』より)


こんな言葉があったな、とふと思い出しました。


おかしなことに私は結構批判されていることに途中まで気づいていませんでした。
むしろ仲が良いとすら感じていました。


私は兄弟の間で、

兄「おまえみたいな鈍いやつ見たことない。」

兄「おまえみたいなやつがいるから会社は困るんだ。」

私「あー、そうか、そうなんだ。」

私「あー、そうかもね。」

みたいな会話が日常的にされていたので、こういう言葉を兄が言うのは心外だから、離れよう、とかいう考えは浮かばないわけです。 


不快さは感じているのですが、その会話がデフォルトであり、自尊心がそもそも形成されにくい家庭環境にいますから、そうだよね、私ダメだもんね、と痛みを痛みと感じたり、怒りを感じとるセンサーが機能していません。

批判こそが兄の愛情だ、と私は愛を勘違いしています。


批判こそが父の愛であり、アドバイスや指示こそが母の愛だったので、自発的に動いていいよ、あなたの存在はOKだよ、を両親から学んでいません。


私だけでなく、批判が当たり前にある家庭環境で育つと、自分を傷つける人から離れる、NOといおう、というセンサーが鈍いです。


それくらいやり慣れた、自動反応で私たちは行動をしています。


因みに、穴がある人を相手側もちゃんと見破るので、そういう人に自ら積極的に声をかけ、また穴が空いている人は、あー、これは愛だ!嬉しい!と知った愛だけに喜んで繋がったりします。


共依存と言うとまるで悪者ですが、本人たちはどちらかがそれに気づくまでは、私たちはうまくやれている、と感じていたりします。


で、話しを戻すと、穴が空いているからこそ、そこに留まりやすいのですが、本当は自分を好いてくれる人はそばにたくさん居たりします。 

ちょっとだけ視界を広げてみると、勘違いでない愛の交流ができる人たちがは意外にいるのです。

そう。

ですから、

生きづらいとは、10人中の特に2人や、9人に目を向けて愛を循環するのではなく、1人にものすごく囚われる、執着してしまう、ということなのだ、と感じます。


生きやすいとは、自分を嫌う1人には目を向けず、あとの9人とたくさんの愛の循環に集中できる、ということなのだ、と思います。


私が両親に愛を求めて手に入らなかったのは、彼らにこそ大きな穴が空いていたからです。


自分の穴が大きく空いている人に、愛をください、と頼んでも、物理的にないものは与えられない、と彼らをみていて感じます。

じゃあ、どうするか。

心に穴が空いていても、そこにしっかりと向き合い、意識的に気づいている人とは、努力して愛の循環をしていくことができます。


そこに元々穴が小さい人が加わっていれば尚更、学んで自分のものにしていくことができます。

今、いろんなご縁ある方と愛の循環をしていて、その活動こそが心の穴をまた埋めて強固にしていく作業なのだ、と感じます。

どなたかの愛の循環のヒントになれば幸いです。

お読みいただきありがとうございます。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?