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相手の観てきた世界の深さ、高さ、広さの違いを感じて話しをする。


ある男性と話していて、私と観てきた世界、みえている世界の深さ、高さ、広さが違う、と感じました。


それは、仕事に関する話しでしたが、私より仕事でずっと多くの体験やそれに纏わる考察をしてきた経験から、遥かに私より観てきた世界が広大だ、と私が感じ取ったからでした。


夫が「私は命懸けで仕事をしてきた」と言うときがありますが、それがいいか悪いかは横に置き、そういう人と、私のように長く仕事は生活のため、というスタンスで働いていた人とは観てきた世界が違うのは当然です。



この世界観の違いは仕事だけでない、と感じます。


たとえば私は「生きる」ことが当たり前ではなく難しいことだったので、10代から病院に通院し、入退院を繰り返したりするなか、「なぜ人は生きるのか」「本当の幸せって何なのか?」をよく考える幼少期や思春期を過ごしていました。


そういう経験をしてきた私と、生きるのは当たり前のこととして、痛みの少ない人生を送れてきた方とが話しをするとき、「生きている」ことに対する世界観が違うのはとても自然なことです。


が、そこ見誤って話しをし、自分の経験してきた世界でしか物が観えていなかったり、相手に自分を分かってほしいという期待や齟齬があったりすると、その人の世界観をそのまま受け取りにくくなる、と感じます。


どの方がしてきた経験も、観てきた世界も、唯一無二のとてつもなく尊いものであり、それを自分のフィルターで曇らせることなく受け取るとき、それはギフトになります。


それをギフトとして受け取るか、そうでないかは、想像力や創造力にかかってくるのではないか、と感じます。


また、常に相手を尊重する気持ち、も大切だと思います。


自分を尊重しているほどに、自分とは違う世界観の方の話しもギフトとして受け取ることができますが、自分を尊重できていないときほど、ジャッジをしたり抗ったりして受け取ることができないのではないか、と感じています。


自分自身も誰よりもまず自分が尊重すること


相手を尊重すること

想像力や創造力を働かせて人の話しを聞くこと


こればできればどんな方の話しも、違う世界観も自分のための学び、ギフトとして受け取れるのだろう、と感じます。



「我以外みな我が師」吉川英治


吉川英治が好んで書いていた言葉だったそうです。


自分自身への励ましとしても書きました。


お読みいただきありがとうございます。

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