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僕の昭和スケッチ

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「僕の昭和スケッチ」は、昭和レトロを描いたもりおゆうのライフワーク画集。誰の心にもある遠い日の思い出を200枚を超える水彩画で・・・毎週月曜更新予定(祝祭日を除く)。
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#イラスト

「小鳥屋さん」昭和の街角

「僕の昭和スケッチ」画238枚目 上の絵は小学校の通学路に昔あった小鳥屋さんの記憶を描いたもの。 子供でも小遣いを数日貯めれば買えるような値段で売られている小鳥達もあり、命の安さに子どもながら驚いた記憶がある。 昭和40年代が最盛期だった小鳥ブーム。 柳ヶ瀬近くの街角にあったこの小鳥屋さんも今はもう無い。 今日はこの絵を見て頂ければ、僕はもうそれで充分。

「天は人の上に人を造らず」若き日の福澤諭吉を描く

「僕の昭和スケッチ」画236枚目 福澤諭吉 諭吉の肖像が一万円札になったのは昭和59年、もう昭和も終わりという頃だ。 「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず、と言へり」 これは諭吉の「学問のすゝめ」の冒頭の有名な一文。 アメリカの独立宣言の序文『すべての人間は、生まれながらにして平等である』を諭吉が意訳引用したものだ。 だから最後が「、と言えり」になっている。 だが、「学問のすゝめ」はこの後以下のように続いている。 意外に知られていないのだけれど、、、 <要

「母と伊勢海老」信心と殺生

「僕の昭和スケッチ」画235枚目 ある時、大きな伊勢海老が我が家にやってきた。 客が土産に持って来てくれたもので、「塩茹でにするだけでええでね」と客は言って帰った。昭和30年半ば頃のことだろうか。 客が帰った後でお袋は言われた通り、大鍋に水を張り伊勢海老を入れるとガスに火をつけた。 湯が温まってくると、伊勢海老は苦しいので鍋の中でガタガタと鍋を揺らして飛び出ようとする。お袋は,「そうはさせじ!」と上から力一杯鍋の蓋を抑える。 鍋の中で苦しむ海老を哀れと思ったのか、そ

「屋根の上の鳩舎」昭和鳩ブーム

「僕の昭和スケッチ」画233枚目 昭和に鳩ブームと言われる時代があった。 クラスにも必ず鳩を飼っている子どもがいて、市街地でも鳩小屋がある家が見られた。昭和30年代から40年代にかけてのことだ。 だが、当たり前のことだが町中の家では鳩舎を置く場所もなく、今思えば随分危険な場所に置かれている場合もあった。 屋根の上の、しかもとても安全とは言えない場所だ。 クラスメイトが鳩を飼っていると言うので、行って驚いたのを覚えている。 「今度鳩レースに出すんや! 可愛いぞ、一緒

水筒の思い出

「僕の昭和スケッチ」画232枚目 上の絵に描かれている水筒は、僕が幼稚園の頃に実家にあった水筒だ。 戦時中に使われていた水筒で、戦地に赴く兵隊の装備品でもあった。 古い日本映画にもよく出てくるものだ。 幼稚園の頃になると遠足という行事が始まり、僕も母親にこの水筒を持って行くように言われるのだが、さすがに戦後10年程経ってから生まれた僕らには古臭く感じられ、ディズニーのミッキーマウスなどの絵柄などの入った当時流行り始めた魔法瓶水筒をねだって買ってもらったことを覚えている。

「竹の子族現る!」原宿ファッションs55

「僕の昭和スケッチ」画230枚目 「竹の子族」なる若者達が原宿歩行者天国に出現したのは昭和55年。 派手な服装でディスコサウンドをバックに彼らはちょっと奇妙なステップダンスを踊り原宿名物になった。竹の子族に憧れる若者達も次々に現れ、マスコミも大いに賑わせたものだ。もちろん、彼らに眉を顰める大人達もいた。 僕にとって竹の子族というのは、上のイラストのような感じだ。 個人的には別段竹の子族が好きとか嫌いは無く、世代差があってか、この竹の子族の奇抜なファッションには全く興味を

「給食ソフト麺」豊かになっていく日本

「僕の昭和スケッチ」イラスト229枚目 <学校給食> 僕らの時代の給食はそんなに美味しいものではなかった。 脱脂粉乳のミルク*が出されていた時代だ。 途中でチーズなるものが登場するが、これも臭くて石鹸のようだった。今の美味しいチーズとは似て非なるものだ。戦後の僕ら貧乏小僧を救おうと奮闘してくれた大人達には大変申し訳ないのだが、この脱脂粉乳とチーズは僕らを苦しめた二大悪魔だった。もう昼休みなのに、臭いチーズを細かく割って少しずつ飲み込んでいた女の子もいた。残すことは許され

「四畳半フォークと呼ばれた時代」昭和の歌

「僕の昭和スケッチ」イラストエッセイ224枚目 この記事は、先日の「フォークギター1本あれば/昭和の歌」の続きです。 大学紛争や反戦運動も終わりを告げた頃に僕らは上京した。 わずか数年前の事なのに、若者たちが引き起こした新宿フォークゲリラ(1969年)などまるで嘘のように静かな新宿の街だった。駅の構内にはTVで見たような反戦ビラを持った若者の姿はなく、京王デパートの前に手製のネックレスや安っぽい革製品を売るフーテン*が座っていた。流行りのロングベストを着て。 さて、一世

「シベリアケーキは何故シベリアケーキ?」

「僕の昭和スケッチ」イラストエッセイ223枚目 シベリアケーキは羊羹、もしくは餡子をカステラで挟んだ和製洋菓子。 三角形のものと四角のものがある。 誕生は明治後期から大正とされるがはっきりとした記録はない。 このお菓子、昭和の初期には子どもたちが食べたいお菓子No.1だったというが、僕の子供の頃、つまり昭和30年代では既にこのお菓子はどこかレトロなお菓子という印象だった。 誰かのお土産でこのケーキを貰うと、お袋は言ったものだ。 「あれ、懐かしい。シベリアやね!」 と。

「インベーダーゲーム登場」新時代の予感

「僕の昭和スケッチ」イラストエッセイ221枚目 インベーダーゲームは遊びを大きく変えた。 ゲームセンターのみならず喫茶店にもインベーダーゲームのテーブル型筐体がずらりと並んだのは1974年(昭和49年)頃。 ファミコンが登場する遥か前の事だ。 コンピュータゲームが社会現象になった時代 インベーダーゲーム以前にもゲームセンターはあったが、「不良の溜まり場だよね〜」などと言われたもの。 けれど、このインベーダーゲームは、あっという間に大ブームとなり、言ってみれば「不良の溜

百人一首にまつわる思い出と紫式部

「僕の昭和スケッチ」イラストエッセイ219枚目 百人一首にまつわるちょっと個人的な話 僕は20年ほど前に離婚したのだが、その別れた女性Aさんは中々の才女で小さい頃から文學に親しみ、百人一首にも精通していた。 一方、僕の方はといえば、百人一首は家にあったもののものの、母親と坊主めくりばかりしていたという有様。高校時代から本が好きになった僕と幼年期から本に親しんできた彼女との間にはスタート時において文学的な基礎教養に若干の開きがあった(笑) 勿論、そんな事が離婚の原因ではな

二宮金治郎の銅像が消えていった理由

「僕の昭和スケッチ」イラストエッセイ218枚目 僕らの子供の頃には殆どの小学校の校庭に二宮金治郎の銅像があった。 二宮尊徳(二宮金治郎)*は江戸後期の農政家、思想家。 幕末期に、農民の出身でありながら、荒れ果てた農村や諸藩の再建を成功させた人物。 少年期に薪を運びながら勉学に励んだという逸話(事実かは不明)は明治、大正、昭和の刻苦勉励型の教育理念の範とされ、各地の小学校に銅像が造られた。 しかし、ご存知のようにこの尊徳像は時代と共に徐々に撤去されていった。 それには、

昭和ジャズ喫茶は大人の世界

「僕の昭和スケッチ」イラストエッセイ217枚目 高校時代にちょっと背伸びして通ったのがジャズ喫茶。 コルトレーン*やダンモ、ズージャ、なんて言葉が隣の席から聞こえて来た。 1970年頃の話だ。 ダンモはモダンジャズ。 ズージャはジャズ。 いわゆる逆さ言葉だ*。 そんなジャズ用語を得意げに話す面々が本当のジャズ通であったかどうかはさておき(笑)、ジャズ喫茶にはやはり独特の魅力があった。 それは、大人の音の世界。 コーヒーとタバコがとてもよく似合った空間だった。 因み

タバコの時代/昭和

「僕の昭和スケッチ」イラストエッセイ215枚目 昭和はタバコの時代だった。 昭和41年の喫煙率はなんと83.7%*! 大袈裟ではなく、みんなタバコを吸っていた (o^^o)💦 「タバコはカッコイイ」が通用した時代だ。 僕も昔は吸っていた。 昭和の街角にはタバコの吸い殻がどこにでも落ちていた。 神社、仏閣、公園、映画館、電車の中、バス停、、、 食堂やレストランのテーブルにもごく普通に灰皿が置かれていた。 新幹線の座席にだって肘掛けの所に小さな灰皿が設置されていた。 今