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五井先生の文

宗教の道に入りますと、すぐに何もかもよくなる、と思いこんで入ってくる人がおりますが、宗教の道というのは、本来、本心開発の道であり、永遠の生命をはっきり知るための道でありまして、現象の利害得失を主にすべきものではありません。しかし、イエスの頃もそうであり、今日もそうなのですが、現世の利益がなくては、多くの人が入信する状態にはなりません。

そこで、天にまします父は、イエスを通して、多くの奇蹟を現わし給い、いざりを立たせ、盲の眼を開き、少しのパンで、多くの人びとを飢えさせぬような不思議を行なわれたのであります。

これは現象的なそうした奇蹟が主ではなくて、神のみ心に入れるため、道開きのためであったのです。

イエスにキリスト(真理)を現わさしめ、縁ある人びとの信を堅めさせ、多くの人びとを真実の救いの道に入らしめようとなさっておられたのです。イエスの言はすべてキリスト(真理)でありましたし、イエスの行為はこれまた真理(キリスト)そのものでありましたが、イエスの肉体はやはり打てば傷つき叩けば痛む、地上界のものであったのです。

この事実がわからなかったため、後に至って歴史的な事件、ユダの反逆行為を生むことになるのであります。このことは後にくわしく書いてまいりたいと思います。

イエスもそうでありましたが、人類を救いたい、と願望して神の使徒となり、善薩業をしてゆくものにとっては、現世の利益と、真実の救済とのギャップにあって、非常に苦労をするのであります。

現世の病気や貧乏や災難や、様々な不調和な状態から、人びとを脱け出させたい、と思うのは、聖者賢者や愛深い人たちの等しく思うところであります。しかし、現象利益だけにすがって、自己の本心開発を怠る人びとがあまりにも多いことにたいして、聖賢や菩薩たちは深く考えざるを得なくなるのです。

イエスがこの節の中で「主よ主よ、我らは汝の名によりて預言し、汝の名によりて悪鬼を逐いだし、汝の名によりて多く能力ある業を為ししにあらずや」と人びとが、もし自分にいってきたらわれ断えて汝らを知らず、不法をなす者よ、我れを離れされ、というであろう、といっています。

これは、いかに神の名により、あるいは、イエス・キリストのみ名によって、多くの奇蹟を為し遂げたとしても、自分が日頃から教えている通りの行為をしていない者は、自分の弟子でもなければ、宗教信仰者でもない、そんな者たちを自分は知らない、法から離れている者たちよ、我れから離れされ、というのであります。

真の宗教信仰というものは、こういうものでありまして、ただたんに現世利益だけの霊能力をもって、人を救ったようにみえても、真理にそむき、神のみ心を外れた行為によって、そういう奇蹟がなされていたのでは、キリストのみ心が現われていないのですから、邪道ということになり、真実に人を救うことができないばかりか、かえって、人びとを毒してしまうのであります。

現世利益の教え方も勿論よいし、奇蹟もあるほうがよいのでありますが、それが常に、真実の救いにつながっていなければならないのです。真実の救いとはどういうことかと申しますと、人間の本体は神の分生命であって、肉体のみではなく、永遠の生命そのものなのであることを知ることなのであります。そういう道に導き入れるための現世利益の教えであり、また奇蹟でなければならないのです。

イエスの様々の奇蹟は、すべて神のみ業を示すことにあり、それによって、神を崇め、神を敬まう、そういう心を養わせよう、としてなされているのであります。神を崇め敬まう心は、そのまま自己の本心開発につながるものであり、神のみ名によって、みずから善き樹を植えつづけてゆくことになるのであります。

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