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友情炒飯

※こちらは過去に投稿しました『極上チャーハンの謎』を神永学先生にご指摘いただいたのを参考に改稿したものです。少しでも成長していることを願って。

 友情炒飯(本文)


「この間の女子高生、足がまだ見つかってないんだって」

 無言の雰囲気に耐えられなくなった山口大栞(ヤマグチタイシ)は、今スマホに届いたニュースをキッチンにいる男に伝えた。

 話しかけられた男は包丁を振り下ろす手を止める事はなかった。

 トントントンと一定のリズムで食材が切られていく音が響く。

「えっと、最近ここの地域で話題のニュースだったんだけど、知らないかな?」

「さあ。ニュース見ないからあんまり……近いの?」

「遺体が発見された場所は、二駅先だから近いね。って、ごめん。料理中にする話じゃなかった」

「いや、別に気にしない」

 キッチンに立っている男は大栞をチラッと見てから再び手元に視線を落とした。またトントンと音が鳴りだす。

 包丁を華麗に使いこなしているのは、野中翔。大栞と同じ大学の学生だ。

 背は低いが筋肉質な体型で、聞くと毎日筋トレをしてしっかりと体を鍛えているらしい。烏のような黒髪が耳にかかるまで伸ばされ、そこにうっすらとツイストパーマがかかっている。

 表情に喜怒哀楽はあまりなく、大学でも誰かと談笑しているところは見たことがないミステリアスな男である。

 そしてここは、翔が間借りしているシェアハウスだ。

 大栞はスマホをジーンズの後ろポケットに戻してキッチンに近づく。

 窓が大きく日当たりの良い広いリビングだ。部屋の真ん中には四人掛けのダイニングテーブルセットが置かれている。家具はナチュラルブラウンでまとめられ、とても清潔なイメージを受けた。

 リビングとキッチンには仕切るような壁がないため、全体的にとても開放感がある。

 キッチンスペースは、長方形のカウンターがL字に囲こい、そこに水道やコンロが備え付けられている。

 他にも電子レンジやトースター、ミキサーがおかれ、それらはカラーが統一されているからかとてもセンスがよく見えた。

 自分の部屋とはえらい違いだと大栞はため息を吐く。

 壁に目を向けるとグラデーションのようにサイズや形の違うフライパンが引っ掛けられていた。

 大栞が所持しているフライパンの種類は一つで、しかもそれで目玉焼きやラーメンだって作る。だからフライパンだけでこんなに種類があるのには驚いた。

 そんなサイズを揃えて何に使うんだろう。

 とりあえず、料理へのこだわりは強く感じる。

 そして、そのキッチンで何より目を引くのは、奥にある門扉のステンレス冷蔵庫だ。

 一八〇センチの大栞が三人くらい立って収納できるほどの大きさで、怪物のボスのように堂々と鎮座している。

 凄すぎる。シェアハウスっていうより……

「なんか、レストランみたいだね」

 大栞の言葉に少し翔の口の端が上がった気がした。キッチンを褒められたことが嬉しいのだろう。

 野菜を切った香りがふんわり漂ってきた。

 一人暮らしで、だいたいの食事は大学の学食かバイト先のコンビニ弁当だっただけに、手作りの料理はありがたい。

「あの、野中くん? 僕も何か手伝えることない?」

 先ほど、料理が出来上がるまで座っててと言われたのだが、居場所がない気がしてソワソワと落ち着かない。

「お客さん、美味しい炒飯が出来るまで待ってて下さいよ。それに、この間のお礼なんだから、手伝われたら困る」

「そっか。ありがとう。……それにしてもシェアハウスって僕初めて来たよ。他の人は今いるの?」

「ああ。部屋にいるんじゃないかな」

 シェアハウスとは、一つの住居に他人と一緒に住む賃貸物件のこと。数人で住むため家賃も安く、お金のない学生などにはとても人気だ。

 大栞は小さなアパートで一人暮らしをしている。

 五年前に両親が事故で亡くなり叔母夫婦に引き取られて暮らしていたが、居心地が悪く大学入学を機に自立をする事にした。

 その時にシェアハウスも候補に入れていたのだが、やめた。家具も家電も買わなくて良いというシェアハウスは魅力的だったのだが、他人と住む事でトラブルも多いと聞き、諦めて今に至る。


 キッチンからは美味しい食べ物ができていく音が絶えず聞こえている。

 翔の動きはとても手慣れていた。毎日キッチンに立っているんだろう。無駄な動きがない。

 先日、カップラーメンを作っている過程で軽い火傷をした大栞は翔の流れるようなモーションに感動し、魅入っていた。

 翔はそんな視線を気にする素振りもなく、コンロにかけていた鍋を持ち上げて、それをシンクに置いてあったザルに流し入れた。

 ぶわぁぁぁっと湯気が上がり、真っ白な水蒸気が霧散するとそこに現れたのは艶やかで美味しそうなご飯だった。

 お釜の蓋を開けた時の白米の香りが大栞の鼻までたどり着く。

「わぁ! 炊飯器じゃないんだ……って、えぇぇぇぇっ!?」

 なんと目の前の料理人は、おもむろに炊き上がったご飯を水道で洗い始めた。大栞は慌てて止めようとする。

「ちょっちょっと! せっかくの炊き立てご飯を!」

「ああ、今日はねバスティマライスっていうインディカ米を使った炒飯にするんだ。ほら、日本の米よりちょっと長いだろ? 普通に炊いても良いんだけど、フワフワにするために『湯取り法』っていうので作ってるんだよ。この方法はね、蒸したご飯を水で洗ってからもう一回鍋に入れるんだ。凝ってるだろ?」

 そう言って洗った白米をまた鍋に移し火をかけた。

「炊けてるご飯を水洗いするとは思わなかった。本当に料理が好きなんだね」

「いやいや、俺は炒飯だけ。あ、そうそう。ここの大家さんはいろんな国の料理を作れるくらい料理好きなんだよ。そういう人と比べると炒飯だけって、ちょっとね……」

「へぇ。でも炒飯だけって言っても、自分で作るんだからスゴイよ。『湯取り法』だっけ? 俺は聞いた事もなかった」

「たしか、山口君が時々行ってる商店街の中華料理店も同じ方法で炒飯作ってるよ」

「詳しいなぁ……って、なんで俺が行ってること知ってんの?」

「二回くらい店内で見かけたよ。だから中華が好きなのかなぁって思って、お礼は炒飯にしようって決めたんだ」

 中華料理店か……。大栞はきゅっと胸が痛んだ。

「それにしても、こんなに料理が好きなのになんで経済学部にしたの? 専門学校とか、料理系の大学とかあったんじゃない?」

「そう思ったこともあったけど、そもそも僕は炒飯にしか興味ないんだよ。他の料理を考える時間が勿体無い気がする。だったら趣味で楽しもうと思って」

 翔は続ける。

「もちろんお店で食べるのも好きだけど、自分で作るのはもっといい。いつも炒飯にはどんなものが合うのか、本とかサイトとかユーチューブとかでコレは合うってのを見つけると居ても立っても居られなくなるんだ。試したいって。たぶんいつも僕の中の極上炒飯を探してる」

 翔は照れたのか右の指で鼻の頭をカリッとかく。相手がへぇと感心しているのを見て、興味を持ってくれたと感じたのか、嬉々として話し始めた。

「いやさ、炒飯て奥が深いんだ。日本では結構メインメニューの位置にいるじゃん? 炒飯にスープがあればいいみたいな。でも実は中国ではメインにはならない。ぶっちゃけ料理人がそんなに力を入れない料理なんだよ。日陰の存在だね。本場でそんな扱いを受けていた料理が海を渡って日本にたどり着いたら独自に進化して、すごく愛されるメニューになってるって、ヤバいくらいロマンを感じない?」

「え、あーうん」

「あ! それとね。炒飯はね、お米でかなり味が変わるんだよ。インディカ米とジャポニカ米ってのがあってね。ジャポニカ米は僕ら日本人がいつも食べてるやつね。で、このバスティマライスってのはインディカ米なんだ。ジャポニカ米は粘っこいからかなり柔らかい炒飯が出来上がる。逆に……」

 話が止まらない。

 炒飯が好きだというのは単純に『大好物な料理』だと考えていた大栞は驚く。

「好きな食べ物なあに?」の質問に「うーんカレーなら三日は余裕で食べれる」と答えるくらいの熱量だと思っていた。

 しかし、彼の情熱はそんなものではなかった。

 今、卵を割り、中華鍋に放り込み炒め始めた。その間もずっと炒飯の説明は続いている。

 明らかに玄人仕様のコンロから噴き出す青く燃え上がる炎、それと同じ熱さの彼の情熱がゴウゴウと大栞に伝わってくる。

 大学での翔はとても物静かでミステリアスな人物だったため、こんなに情熱的に趣味について話すのも意外だった。話を切らないと炒飯の取説が止まらないだろう。

「あのさ、トイレ借りてもいいかな?」

「ああ、そこのドアを出てすぐのところ」

 ありがとうと言ってダイニングを出た。

 大栞はふぅっとため息を吐いた。逃げてしまったようになったが、翔が少し羨ましくも感じていた。

 自分には夢中になれるものは何もない。

 あんなに翔を突き動かす炒飯。彼にはどんなに魅力的に見えているんだろう。

「トイレから戻ったらもう少しウンチクを聞いてみよう」

 大栞は逃げたことを少し反省した。

 扉を開けた先は左手に二人が並んで通れるくらいの長い廊下が伸びていた。夕方だからか少し薄暗い。明かり取りの窓は一番奥、二メートルくらい上にある小さな小窓だけだった。

 手元に電気のスイッチを見つけて押すと廊下がパッと明るくなる。斜め前にある扉がトイレだろう。

 入ろうとした時に大栞はふとあることに気づいた。

 長い廊下を辿るように真新しい手すりが設置されているのだ。高さはだいたい股関節の辺り。トイレのドアの横壁にも縦に手すりが付けられている。その光景がなんとなく病院を思わせた。

 体が悪い人でもいるのだろうか。


 トイレを済ませ、洗面所で手を洗っていると、ピコンッとスマホが鳴った。見てみると地域ニュースを知らせるアプリが表示されていた。

 このアプリは【地域密着ニュースROVA】名前の通り、自分の住んでいる地域周辺の情報をいち早く知らせてくれるもので、天気からイベント、事件事故までスピーディーに住民に知らせてくれる。

 噂では、情報収集の鬼と呼ばれるカリスマジャーナリストがいるらしいのだが、真相は不明だ。

 

 ――被害者の高校生、両親とトラブルで家出か。

 女子高生のEさんは、事件直前に進路のことで両親と口論になり家を飛び出していたことが友人のSNSのメッセージからわかった。

 友人はその時、Eさんに泊めてくれと言われたのだが、その日の夕食はハンバーグの日だったため丁重に断ったという。

 彼女は、断ってしまった事をとても後悔していると話してくれた。

 〈地域密着ニュースROVA〉


 やはり、最近起きてる事件についてだった。

 今、この地域を恐怖に陥れているのは、『手足切断通り魔殺人』だ。

 一年前くらいから三ヶ月に一人の割合で被害者が出ていた事件だったのだが、最近はハイペースで、この二ヶ月で既に三人が餌食になってしまった。

 殺害方法はすべて同じ。

 夜、一人で歩いている被害者の後頭部を石で殴打し殺害。遺体はすぐに見つからないようにしたかったのか、近くの林や背の高い茂みに遺棄。その際になぜか犯人は被害者の足、もしくは腕を切り取っていく。

 そうしてつけられた事件名が『手足切断通り魔殺人』だ。

 ちなみに、財布は中身がそのままの状態で残されていたため強盗目的ではないと思われている。また、どの被害者のスマートフォンも基盤が粉々になるまで叩き潰されていた。

 先月と先々月の間に殺害されたのは、

 サラリーマンの男性、会社員女性、女子高生だ。被害者に接点はなく、行き当たりばったりの行きずりの犯行だと思われている。

 そして……

 大栞は今日の出来事を思い返した。


 大学の授業が終わり、翔のシェアハウスへ向かっていた。いつも通り道にしている商店街を歩いていると時々入る中華料理店が閉まっていることに気づいた。

 廃れゆく商店街の中では元気な店で、バイト代が出た時はだいたいこの店で食べている。

 店名は『海老プリプリ中華店』。みんな親しみを込めて『プリプリ中華』と読んでいる。

 閉店時間にはまだ早い。

 しかし、いつも入り口に飾ってある提灯がかかっていない。

 店内をのぞくと薄暗く、椅子がテーブルの上に逆さに置かれている。

 赤い中国語のロゴがデザインされたガラスドアには『急で申し訳ありません。勝手ながら本日より少しの間休業させていただきます。店主』と書かれた紙が貼られていた。

 本当に急だったのだろう、殴り書きのようだし、紙は貼れればいいというように雑にセロハンテープで固定されている。

 病気だろうか? 夫婦で切り盛りしていて、店長は五十代ののんびりした気のいいおじさん。おかみさんは三十代後半くらい、店長の尻を引っ叩きながらキビキビ仕事をする美人な女性だ。

 なんだかんだ仲の良い夫婦に見えた。

 どの客にも愛想良く話しかけるので、大栞も何度か会話をしたことがある。

 ぼーっと貼り紙を見ていると、突然背後から話しかけられた。

「あんた、プリプリさんとこの常連の子よね?」

 背中が丸くなったお婆さんだった。彼女こそ常連である。

 彼女は大栞がこの店に入るたびにカウンターで店長を捕まえて世間話をしているから記憶に残っていた。

 まさか一日中いるのか? と訝しんだ事がある。

「常連ってほどでもないですけど、えっと、休業って書いてありますね。店長なんかあったんですか」

 ね……と言葉が終わる前に彼女が大栞の服の袖を掴んだ。

「ちょっと来て!」

 お婆さんの力とは思えないほど強く引っ張られた。入り口の前から少し移動する。どうもナイショ話がしたいようだ。強引な指示通り屈んで耳を寄せた。

 しわがれた声の陰に少しのワクワクを感じる。

「ここだけの話よ。実は昨日の夜から店長の奥さんが行方不明になってるらしいの」

「え?!」

「しーっ! 大きい声出しちゃダメよ。それでね、その……最近ここら辺で怖い事件があるじゃない? それなんじゃないかって」

『手足切断通り魔殺人』か。

「もちろんまだ分かんないんだけどね。旦那に内緒で実家に帰ったとかならまだ良いんだけど、心配よねぇ。あなた何か知らない?」

「いや、僕は何も……あ、じゃあまだ何もわかんないんですね」

「そうよー! わかってたら私の耳に入ってるはずだもの。あんたも若いんだから気をつけなさいよ。私みたいなおばあちゃんなら安心なんだけどねぇ。じゃあね」

 お婆さんは言うだけ言って、腰の曲がった体とは思えないほどのスピードで商店街の喧騒へ消えていった。店先の隅で腰を落として丸くなった大栞をそのままにして……。

 もしかしたら、知り合いに『手足切断通り魔殺人』の被害者が出てしまうかもしれない。

 お婆さんの噂話に一抹の不安を抱いていると、ランドセルを背負った学校帰りの小学生二人組と目があった。すると彼らは大栞を指差し、

「あー! うんこしてる! いーけないんだいーけないんだ! プリプリ中華のおじちゃんに言ってやろー!」

「ほんとだー! うんこしてる! プリプリうんこまーん!」

 と大声で騒ぎ始めた。

 よく来る商店街で『プリプリうんこマン』のレッテルを貼られたらと思うと、殺人鬼に狙われるのと同じくらい恐ろしい。

 大栞は立ち上がり、一目散にシェアハウスへ向かった。


 リビングへの扉を開けるとジューっという音と共になんとも美味しそうな匂いが充満していた。

「もう出来るから、座ってー」

 翔は黒い丸底のフライパンを片手に持ち、黄金色の炒飯を柄の長いお玉で掬い上げて盛り付けていく。立ち上がる湯気が美味しそうにゆらめいている。

 大栞が座るのと同時に、テーブルには真っ白な丸い皿にかまくらのように盛られた炒飯が二皿置かれた。一つは翔のだ。

「どうぞ。召し上がれ」

 彼はテーブルを挟んだ反対側に座り、無表情で言った。

「うわー! 美味しそう。いただきます!」

 一口食べると、大栞の脳に凄まじい閃光が走った。

 うまいっ!! なんだこれは! 今まで食べた炒飯とは比べ物にならない。何が違う? わからない! ご飯の存在感が一粒一粒にしっかりあってパラパラなのにも関わらずしっとりとして噛むたびに味がブワッと広がってくる!

 そして何よりこの肉だ! サイコロ状にカットされたチャーシューが抜群にうまい!

 肉厚で牛肉のような見た目なのに、臭くなくて甘みがある。豚肉? いや、鶏肉か? わからない。けどうまいっ!

 一心不乱に炒飯にかぶりついた。

 しばらくして興奮は少し和いだが、感動は止めどなく溢れてくる。

「こんなに美味しい炒飯は食べたことがないよ。本当に美味しい!」

 神々しいものを見せつけるようにシルバーのスプーンですくった炒飯を掲げる。

「口に合って良かった。こちらこそ、テストの範囲を教えてくれてありがとう」

 そう。今日大栞がシェアハウスに招かれたのは、授業のテスト範囲をまとめたノートを翔に貸した事が理由だ。

 翔は、たまたまテスト範囲発表の授業を休んだらしく、授業内容を聞くため、近くの学生に声をかけようとしては止めるを繰り返していた。

 それを見ていた大栞は、声をかけてテスト範囲をまとめたノートを渡した。

 翔は友人がいないらしく、教授の話からテストの範囲を伝えられたらしい事を知り、どうしようと途方に暮れていたようだ。

 そして数日後、テストが無事終わると翔が大栞に話しかけてきた。

「ノート、ありがとう」

「いや、気にしないで大丈夫」

「本当に助かったんだ。お礼をさせてほしいんだけど」

 大栞に断る理由はなく、予定を合わせて約束し、こうしてシェアハウスに招かれた。

 まさか、こんなに美味しい炒飯を食べることになるとは思わなかったが。

 わらしべ長者になった気分だ。いや、おむすびころりんかな。昔話のネズミの国がシェアハウスというのもなんとなくイメージに合っている気がする。

 迷路のように入り組んだ道にたくさんの空間、そこに暮らす他人同士。

 想像したところでふと思い出す。

「そういえば、廊下に……」

 その時、突然廊下へ出る扉が開いて誰かが鼻歌まじりで入ってきた。

「ふふふーん、ふふーん……あ! お、お友達いたんだね。ごめんね」

 二十代半ばくらいの男性だった。白いボタンシャツに灰色のカーディガンを羽織っている。色白で垂れ目、とても優しそうな印象を受けた。

「あ、お邪魔してます」

 挨拶をすると、彼は大栞にニコリと微笑んだ。

「洋平さん、杖なくて大丈夫なの?」

「う、うん! 翔くんがろ廊下に手すりを付けてくれたからここまで余裕だよ」

 そういうと、洋平と呼ばれた男は左足を引きずりながら、大栞たちが座っているダイニングテーブルに近づいてきた。

 すかさず翔が手をかして、彼の隣の椅子に座らせる。男の手は小刻みに震えていた。

「こんにちは。お大家の佐々木洋平です」

「大家さん!? えっと、山口大栞です。野中くんとは大学が一緒で」

 洋平は大栞の言葉に嬉しそうにうんうん頷く。

「仲良いんだねぇ」

 仲がいい?

 そう。普通、家招かれるという事はそれなりに親しい間柄だと思うだろう。

『いえ。仲が良いわけではありません。ちゃんと喋ったのも今日が初めてです』とは言えない大栞は、軽く笑って誤魔化した。すると翔が、

「仲良しですね。山口くんとは商店街のプリプリ中華で時々見たりしてて、そこで知り合った感じかな。この間授業に出なかった事でテスト範囲分からなかったところを親切にしてもらったんですよ」

 うん。概ねそんな感じだ。

「や山口くんも優しいんですね。類は友を呼ぶのか、翔くんも優しくてね、最近足が悪くなった僕のために家のバリアフリーをDIYしてくれたり買い物に行ってくれたりするんですよ」

「へえ。野中くん器用で優しい!」

「いや、別に……」

 照れた時にやる翔の癖なのだろう、鼻の頭を指でカリカリと引っ掻いた。

 大栞はキッチンと広いリビングを一周するように視線を走らせる。

「あの、大家さんて俺らとそんなに変わらない年齢ですよね? それなのにこんな大きな一軒家でしかもシェアハウスの管理人ってメチャクチャすごいですね」

 洋平は申し訳なさそうに笑って、顔の前で手を振る。

「いやいや、こ、この家を建てたのは親だから僕はすごくないよ。引き継いだだけ……母さんも父さんも料理好きでね、キッチンだけはこんなに広いんだ。僕もこんな体になる前はたくさん料理をしてたんだよ」

 そういうと彼は少し俯き、片手で不自由になった足をゆっくりと撫でた。

「あ、お身体どうされたんですか?」

「う、うーん。にに二ヶ月前くらいに、とと突然『腰椎椎間板ヘルニア』になっちゃったんだ。ち、ちょっと生活は不自由かな」

「そうそう。突然でさ。二階にあった洋平さんの部屋を一階に移動したりして、結構大変だったんだよ」

「ごめんてー。ひ引っ越し焼肉パーティしたんだから良かったでしょ」

「いや、引っ越し炒飯パーティが良かったですね」

「もー。炒飯オタクめー」

 ケタケタと笑い合う二人はとても微笑ましい。

 大学とは違う、穏やかな笑みを浮かべ楽しそうに話す翔に大栞は好感を持った。

 これからはもっと仲良くできるかもしれない。

 食事の続きをしながら、この美味しい炒飯のレシピもいつか教えてもらえる日が来るかも。などど思いながら、残り少なくなった炒飯を口に運ぶと、ふと視線を感じた。

 それは洋平からだった。彼は大栞のチャーハンに目を落としている。

「……そそ、そういえば、中華料理店と言えば、つ辛いですねご主人、奥さんなな亡くなってしまって」

「え?! そうだったんですか! 貼り紙がされていたから何かあったんじゃないかとは思ってたんですけど」

「うん。殺害されたんだよ」

 やはり『手足切断通り魔殺人』の被害者になってしまったのだろうか。

 と、思ったその時、洋平が奇妙なことをし始めた。

「んん? あ、あれ? その炒飯のお、お肉って……」

 洋平が匍匐前進の如くテーブルを這って近づいてきた。

 大栞は反射的に椅子をガガッと後ろに下げて距離を取った。

 ぐにぃんと頭を横に倒して大栞の皿を凝視している。鼻を引くつかせ、匂いを嗅ぐ。目を見開き、口はポカンと力なく開けている。

 その表情がサスペンスドラマで見る死体のようで気持ちが悪い。

「あ、あの? なんですか?」

 すると次の瞬間に、く、うくくくくくくくくく……あはーーーっははぱぱぱひぃひひひぃ! と、テーブルに額を擦り付けながら腹を抱えて笑い出す。テーブルがガタガタ揺れて炒飯の小山に雪崩が起きた。困惑して動けない。

「あー、ごめん。洋平さんてちょっと笑いの沸点が低いっていうか、ズレてるんだよね。そのままにしてたらとりあえず治るからちょっと待ってて」

 特別な事ではないという感じで、翔は目の前の炒飯をパクパク口に運んでいく。

 目を閉じて味を堪能する余裕すらある。

「ふふふふふっくぅぅあばばばばははひひひひぃぃぃ」

 五分くらいの間、会話はなく、ただ洋平の声だけがシェアハウスに響いていた。

 部屋に充満する気色の悪い笑い声。しかし、耳を塞ぐことも出来ず、堪えるしかなかった。

 しかし、体が震えるのは止める事ができない。極寒の中Tシャツ一枚で立たされているようで内臓から寒気立つ。

 大栞は自分の皿を見つめ続けた。

 残りはスプーンにすくわれた一口だけ。恐怖と不安でそのラスト一口が喉を通らない。

 肩をいからせて耳に力を入れる。少しでも声が入ってこないように。


「ふふーんふぅぅん。ふんふーーーん」

 暴力的な笑い声は徐々に軽い鼻歌へと変化していった。

「ようやく治りましたね」

 翔が言うと、洋平はテーブルに顔をつけたまま翔の方を振り向き微笑んだ。

 本当に治まったのだろうか、目は笑っていないように見える。

「あーあーあー頭が痛い。そう。そんな事より翔くん。このお肉は、僕の大事なおお肉だよね? なんでつつ使っちゃったのかなぁ?」

「ごめんなさい。ちょっとした出来心です。美味しい炒飯を友達に食べてもらいたくて」

 無表情で質問に答える翔。彼が喋っている間だんだんだんだん大家の顔が翔に近づく。

「なかなか手に入らないきき貴重な種類なのにぃなあああ」

 恐怖はまだ続いていた。

 とてもではないが、冷静ではいられない。大栞は逃げ出したい気持ちでいっぱいだった。

 蝶しかいなかった虫かごに、突如カマキリが侵入してきたかのような絶望感だ。

 沈黙。大家は、翔の目玉と自分の目玉がくっつきそうな距離で睨みつけている。

 もう洋平が普通の人間だとは思えなくなってきた。ちょっと、いやだいぶ変な人だ。

「あの、すいませんっ食べちゃって、でもすごく美味しかったです!」

 大栞はなけなしの勇気を振り絞った。

 大家は今度、首を後ろに捻りながら視線を変えて大栞に顔を向ける。

 先ほどと違ってトロンとして閉じてしまいそうな瞳だ。見ているようで見ていない。

 この得体の知れない化け物はこれから何をしてくるのか。

 大栞はホラー映画の主人公になった気分だ。

 そんな友人に気づく事なく、翔が優しい笑顔で話しかける。

「それな、僕が塊からチャーシューにしたんだ。自信作」

「ああ! そうなんだ。美味しいよ! でも食べた事ないような味。これ、なんの肉なの?」「子羊のランプだよ」

 言ったのは洋平だった。テーブルのどこを見つめているのかわからない視線、そして真顔で大栞の言葉を遮るかのように早口で答えた。

 明らかに会話の間ではない。

 この質問にはこう答えようとあらかじめ決めていたかのように。

 すると、大家の口が上下左右にゆっくり開いていく。

「ふ、こ、子羊といえば、迷える子羊だだぁよねぇぇ……ぐふっふふ」

「はあ?」

 もう完全にヤバイ。そう思った時、助け舟のように夕方の時報チャイムが鳴った。五時だった。

 大栞はすぐに立ち上がり帰宅することを翔に伝えた。

「ノートありがとう。また来てよ」

「う、うん。また……」

 もう絶対に来たくない。

 じゃあ、とシェアハウスを出ようとすると、あの狂った笑い声がまた聞こえてきた。急いで外に出る。大家は玄関の扉が閉まるまでずっと引き攣った大笑いを続けていた。



 数時間前に通った商店街を行き交う人たちの隙間を縫うようにして早歩きで突っ切っていく。

 陽が落ちるとシャッターを閉める店舗も多くなり、途端にレトロ感が増してくる。時代に取り残された、どこか寂しいような懐かしさを漂わせる商店街。しかし、今日は雰囲気が違っていた。

 プリプリ中華店の前に人集りができている。

 紺色の空を背景に、マスコミのライトが煌々と眩しい。

 そこには、大栞に内緒話をしてきた老婦人もいてマスコミにインタビューを受けていた。

 近づいてみようと足を向けた時、小さな影がカメラの周りをウロチョロしているのに気づいた。

 小学生の男の子二人……

 大栞を『プリプリうんこマン』と命名した二人組だった。

 もし彼らが大栞のことを覚えていたら、そしてカメラの前であの忌名を呼ばれてしまったら……

 恐怖が彼を襲う。

 人集りに向かおうとした足の角度を変え、プリプリ中華店を迂回して帰宅することにした。

 

 アパートに着くと無意識にため息を吐いた。

 築四十年の古びたアパートの一室だ。

 玄関を入ったら全ての家具が目に入ってくるくらい狭い和室のワンルーム。

 部屋の真ん中にはコンビニ弁当を広げたらいっぱいになるくらいの小さな円卓が置かれ、キッチンも水道とシンク、一口コンロでぎゅうぎゅう詰めだ。まな板を置いて野菜を切るスペースもない。

 しかし、ここは大栞が初めて借りた何にも変え難い安心できる城だった。 

 帰宅してすぐにシャワーを浴びる。

 お湯を浴びながら頭に浮かんでくるのはシェアハウスでの出来事だ。

 何か、悪い夢の中にいるようだった。

 最初は優しそうだった大家がどんどん変貌していくのを見て恐怖で体が震えた。

 いや、過去形ではない。

 あれから一時間近く経っているにも関わらず、今も大栞の指先は小刻みに震えている。

 髪をタオルで拭きながら部屋に戻ると、円卓に置かれたスマホがまたピコンッと鳴った。

 画面を見ると、例の地域ニュースアプリだった。

 スワイプして内容を確認する。


 ――昨夜から行方不明になっていた飲食店経営の女性が十八時三十分ごろ、市内の河原で遺体となって発見された。第一発見者は犬を散歩させていた男性。女性は遺体の一部が損傷しており『手足切断通り魔殺人』の被害者である可能性が高いとのこと。

 〈地域密着ニュースROVA〉


 文章の下には、見知った商店街のアーケードの画像が添付されていた。

 大栞は何かを考えるように口元に手をやる。

 何かしっくりこない。

 何度かニュースを読み返してその違和感に気づいた。

「五時前だったはずだ……」

 そう。中華料理店のおかみさんが失踪したと聞いたのは偶然通りかかったお婆さんからだったが、殺害されたと言っていたのはあの大家だった。

 しかもそれは、ニュースに書いてある遺体発見時刻の十八時三十分よりも前だったはずだ。

 第一発見者よりも早い段階で遺体になっていた事を知っているのは……

 そう考えてから、頭を振った。

「そんなこと、あるわけない。ちょっと異様な人だったから事件と結びつけようとしてるだけだ」

 我ながら性格が悪いと思う。

 大きく息を吸って吐いた。

 気持ちを落ち着けるように円卓の上にあるテレビのリモコンに手を伸ばして電源を入れる。

 バラエティ、旅番組、クイズ番組、いろいろやっているが留まる事なくチャンネルが変わっていく。

 そして大栞は、ニュース番組で指を止めた。

 白く長いテーブルの端と端にキャスターが一人づつ座っている。その後ろのモニターにはデカデカと『一体なぜ?! 住民たちを震撼させている手足切断通り魔殺人』と走り書きのように勢いよく斜めにデザインされた画像が写っている。

 左側に座る女性キャスターがしゃべる。

「もうこの二ヶ月で三人の犠牲者が出ていますね。高校、大学でも夕方以降に一人で出かけないようにと注意喚起しているそうです」

 右側の男性キャスターがしゃべる。

「今三人と言いましたが、もし先ほどの緊急ニュースに出ていた被害者が同じ犯人によるものだったとしたら、一人増えることになりますね」

「そうですね。犯人は遺体の一部を切断しているとの情報が出ていますが、その常軌を逸した犯人の行動には、一体どんな理由があると思いますか?」

「よくある理由としては、遺体を運搬しやすいようにだったり、被害者の身元を隠すなどがあります。前者の場合、体の一部分なので意味をなしませんし、後者では、四肢を全て切断されているとか、頭部を切断されたという情報は入ってきていませんし該当しないように感じます」

「よくミステリー小説などでは、犯人につながる証拠を隠すなんて理由も存在しますよね」

「うーん。それもちょっと理由としてはよくわかりませんね。身体を切断するという作業は皆さんが思っているよりとても大変ですから、屋外ではリスクが高い。証拠を隠すために証拠を作ってしまう可能性があります」

「じゃあリスクを承知で一体なぜなんでしょう」

「食べる事を目的としているとか、ですかね。狩りのように殺人を犯す人間が海外に……」

 大栞はテレビを消した。時間が止まったようにしんと静まり返る。

 目の前の景色が歪み、だんだん立っているのが辛くなり膝から崩れ落ちた。

 ゔっゔぇっっ……吐き気が込み上げてくる。 

 想像してしまったのだ。自分が食べたのが人間だったかもしれないと。

 しばらくして嘔吐感も落ち着くと、彼は意を決してある事を検索し始めた。

 するとこんな言葉が表示された。

 ――人肉の味とは?

『牛のような見た目で鶏のような豚のような味だ』

 カニバリズムで捕まった外国人犯罪者が逮捕後、警察に言ったセリフだそうだ。

 また腹の底からドス黒い渦のような吐き気が込み上げる。胃の外壁を何者かが外に出してと殴っているのかもしれない。

 もう画面を消そうとスワイプをしようとした時、『人肉の味とは』と検索したからか、画面端に『食人を続けた者の末路』というサイトへのサムネイルを見つけた。

 彼は考える前にそのサムネイルをタップして読んだ。

「野中くんが危ない……」

 そのサイトでは食人を続けていると人間はどのように変化していくのかが分かりやすく説明されていた。

 クールー病。

 それは食人をする事で発症する病気で、身体と精神に影響を及ぼし、最終的には死に至る。

 感染後、五年から二十年の潜伏期間を経て発症すると、突然下半身が悪くなり徐々に歩けなくなる。

 身体に震えが強く出る。吃りがひどくなる。精神が不安定になり突然笑い出す。鼻歌を歌う……

 大栞には心当たりしかなかった。

 確実にあの大家、佐々木洋平が『手足切断通り魔殺人』の犯人だ。

 いや、そうでなかったとしても人間を長い期間食べている可能性がある。

 という事は、シェアハウスで一緒に暮らしている翔が一番危険なところにいるのだ。

 どうにか大家に気づかれることなく、翔にこの事を伝え、警察を呼ぶことが出来ないだろうか。

 大栞は吐き気も忘れて部屋の中をウロウロしながら考える。恐怖なのか、小刻みに指が震える。

 助けなくては。

 先ほど洋平は、翔が勝手に肉を使った事を異常なほど怒っていた。きっと彼の逆鱗に触れたのだろう。いくら足が不自由だからと言って、ヤツは何をするのかわかったものではない。

 そんな事があった今夜は、翔の身が危ない。

 考えた末、大栞は翔にラインを送った。


 ――さっきはありがとう。炒飯とても美味しかったよ。でさ、ちょっと授業のことで話さないといけない事があったんだ。今から会える?


 メッセージを送ってから、恐怖を吐き出すように大きく息を吐く。スマホを円卓に置くと緊張で手が湿っていた。

 数分後、大栞のスマホがピコンッと鳴った。


 午前の授業を終えた翔はキャンパス内のベンチに腰掛けていた。

 丸太を真ん中から縦斬りにしたようなベンチが大きな銀杏の木の下に設置されている。

 そのベンチはキャンパス内の至る所に設けられているのだが、翔は一番目立たない場所を選んで座る。ランチをする時はいつもここでと決めていた。

 もちろん夏は暑くて食堂で食べることも多くなるが、そろそろ涼しくなってきて外で食べるのにいい季節だ。

 リュックサックから単行本サイズのお弁当を取り出して膝の上に広げた。今日も自信作である。

 目の前の炒飯が、午前中に作ってから今まで食べられるのを待っていたかと思うと感動だ。

 今から彼の至福の時間が始まろうとしている。

「いただきます」

 目を瞑り、手を合わせてそう呟いた時、突然二人の学生が話しかけてきた。

「なあ。君さ、野崎くんだよね? 大栞の事知らねぇ?」

「お前、バカ! 野村くんだよ。ごめんね。大栞が最近授業に来てなくて、何か知ってたら教えて欲しいんだ」

 翔は眉間に皺を寄せる。迷惑だという雰囲気を隠そうとはしない。

「なんで僕?」

「え? だって、お前ら最近仲良くなかったっけ?」

「うんうん。野村くんの家に行くとか聞いた気がするんだけど」

「いや、アレはノートを借りただけで、お礼をしようとは思ったんだけど結局その約束は流れちゃったよ。だから山口君のことはあんまり知らないから、授業に出てない理由とかはわかんないかな。力になれなくてごめんね。もう、いいかな? 次の授業までに食べておきたいんだ」

 早口で捲し立てる。

 二人組は顔を見合わせてから改めて目の前の男をみた。その動きがシンクロしているのを見て翔は笑いを堪える。

「……そっか。わりぃな」

「どこかでアイツ見かけたら教えてね」

 そう言うと二人は、もう大栞のことなど気にかけてもいないかのように、授業のレポートの事を話し始めながら銀杏並木に沿って大学を出ていった。

 それを横目で見ながら、翔はふぅっとため息を吐く。

「もっとツッコんでくるかと思ったのに、彼らの友情ってあんなもんなんだな」

 その時、秋の涼しい風がさらっと通り過ぎて飾り葉のように黄色い葉がハラリと炒飯の上に落ちた。

 それを見て、クスッと木漏れ日のような優しい笑みを浮かべる。

「君はこんな近くにいたのにね」

 そう言って一口目の炒飯を口に運び、目を閉じる。

 美味しい……

「これが極上炒飯なのかもな。友情が隠し味」

 そう言って、翔は友人を噛み締めた。

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