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スタインベック『アメリカとアメリカ人』――暴力が授ける「美徳」

スタインベック最後の作品、『アメリカとアメリカ人』を読む。書かれたのは公民権運動の盛り上がる1966年のこと。当時の世相を踏まえつつ、最後の作品とあってアメリカへの遺言というべき趣がある。『アメリカとアメリカ人』という題名が、アメリカ人にとってもアメリカという国は「一個の謎」なのだということを暗示しているようなのも興味深い。

移民を巡る問題をアメリカの建国にまで遡って描いた箇所や、大統領選における身も蓋もないネガキャン合戦を描いた箇所など、現代でもまったく古びていないどころか、今年の大統領選を踏まえて書かれたかのような錯覚すら覚える。

「われわれの国土には、あらゆる種類の地質と気候があり、われわれ国民もあらゆる種類の民族、人種から成りたっている。しかも、この国土は一つの国であり、人びとはみなアメリカ人である。モットーというのは、とかく願いごとや夢を盛りこむ。ところが、アメリカの「多様の統一」というモットーは事実である。不思議な、信じられないようなことだが真実だ」

「アメリカに住みついた世界の諸民族のこういう断片のすべてが、どうして一つの国民になったかは、不思議なだけでなく、当初の願望や意図に反してもいた。アメリカ東海岸に住みついた、最初のヨーロッパ人たちは、他の民族といっしょになることを望まなかったばかりでなく、そのことを、規則と防備によって守らせようとした」

「マサチューセッツに上陸したピルグリム・ファーザーズは、イギリス人であれ他国民であれ自分たちとまったく同じ境遇でない連中には、だれにでも銃口を向けたものだ。王室の勅許状をもらってバージニアやカロライナに入植した人びとは、自由民でなく、危険分子でもない奴隷や年季奉公人をほしがったが、多くの場合、労働力はイギリスの刑務所からしか得られず、そのためけっきょく、危険な連中を使うことになった。初期の入植者のどの波も、人目をさけて遠くの土地に入りこむか、あとの波にたいする防備をしていた。じゃがいもの大凶作で祖国をのがれた貧しいアイルランド人たちは、北アメリカ人の敵意の前に、アイルランド人仲間でかたまり、ユダヤ人はユダヤ人仲間でかたまった。西海岸では、中国人の集落をつくった」

「最初の入植者は海岸に上陸し、靴にまといついた海草をとるやいなや、うしろをふりかえって祖国に向かい、「もう、こなくてもいいぞ。これでいっぱいだ」と叫んだだろう。各入植者が新参者に抵抗した異常なばかりの激しさは、移民法がついに他国者の流入を細くさせ、さらにぽつりぽつりとしずくのようにするまで続いた」

「そこでわれわれは、完全な転回点に突きあたり、おかしな矛盾した態度をとるにいたった。移民を制限する法案を通過させることで最も影響力のあった連中が、安い労働力を新しく入れよと主張し、場合によっては不法入国を許せと主張せざるをえなくなったのである。事実、われわれは、いじめる相手がいなければ、それをつくりださねばならぬ、という態度だったともいえよう」

アメリカは建国以来、移民によって作られてきた国なので、常に門戸を開いてきた国のようなイメージを僕などは抱きがちだけど、そもそもピルグリム・ファーザーズの頃から、自分たちより後から来る移民には冷たく、可能なかぎり門戸を閉ざそうとしてきた歴史をスタインベックはクリアに描き出している。「壁」を求める心性は、なにもトランプに始まったものではなく、ましてそれはアメリカ的なものの変質でもない。むしろ、トランプはアメリカの建国以来の一方の伝統を戯画的な次元でどぎつく体現していると言ったほうがいいのだろう。

新来の移民を差別し、冷たく扱い、低賃金の労働者としてのみ受け入れるということを、アメリカは建国以来続けてきたのであり、そのマイノリティが差別に耐えつつ同化する過程を繰り返すことで、「アメリカ人」は形成されたのだとスタインベックは書く。

「ピルグリム・ファーザーズはカトリック教徒をいじめ、両方ともユダヤ人をやっつけた。つぎにアイルランド人がねらわれ、続いてドイツ人、ポーランド人、スロバキア人、イタリア人、インド人、中国人、日本人、フィリピン人、メキシコ人が順番にしごかれた。われわれはこの人たちを〝ミック〟(アイルランド人)、〝シーニー〟(中国人)、〝キャベツ野郎〟(ドイツ人)、〝デーゴー〟(ラテン人)、〝ワップ〟(イタリア人)、〝ぼろ頭〟(東洋人)、〝黄腹〟(東洋人)、などとばかにした名前で呼んだ。各グループにたいするののしりは、それぞれが健全で、なごやかで、自己防衛力を持ち、経済的に人並みになるまで続けられ、そこで古参グループの仲間入りを果たし、今度は一番新しくやてきたグループに突撃した。このように新参者を残酷に扱ったからこそ、種族的、民族的なよそ者が急速に〝アメリカ人〟に同化したのではないかとさえ思われる」

やがて、マイノリティであることが一つの「強み」として通用するになる。これは今でいう「ポリコレ」的な意識に繋がるものだろう。これもまた移民社会ならでは形成された「正義」だと思う。

「一番はじめのころは、よそ者であること、弱いこと、貧乏なことがたたかれた。ところが、おそらく、エスキモーとオーストラリア先住民以外の、世界のあらゆる種類のよそ者をこの国に引きよせたせいだろうが、二十世紀になると、新しい現象が生じた。いったん飽和点に達すると、少数民族が少数民族として影響を行使しはじめたのである。たぶん、コミュニケーションとかパブリシティ、それに映画、ラジオ、印刷物に簡単に接するようになれたことが、これと何らかの関係があるだろう」

そしてマイノリティ性は、大統領選でもアピールされることになる。

「近年では、どの大統領候補も、どこかの部族の名誉部族員になって、羽根飾りをかぶったところを写真に撮ることを考えるようになった」
その大統領選における風景は、スタインベック存命時と現代でも、ほとんど変わらない。

「選挙に当選するには、暴力、悪口、冗談、相手を傷つけるトリックなどを要し、その道はひどくけわしいので、公職選挙に出馬するには特別の種類の人間でなくてはならない。あつかましくて、泥沼の取っ組みあいを実際に心得た人間でなくてはならない。そして、このことは下は村の学校の理事会から、上は大統領職まで、あらゆるレベルに当てはまる。どんなに能力があっても、内気で神経の細かい人がはじき出されるのは驚くに当らない。こういう人が、選挙にしりごみすれば任命職を与えられることになる」

「指名が終わると、選挙戦が始まる。人を傷つけ、名誉を毀損し、いやらしく、殺人的なことがらである。ここでは候補者の動機は悪くいわれ、名声と評判は傷つけられ、家族はおとしめられ、友人と仲間は嘲笑され、悪口をいわれ、やっつけられる。もちろんこれは対立候補にたいしてである」

「一方、味方の候補は、その性格は聖人、政治では名立法家、戦争では英雄、貧しく弱い人びとにはつつましく、誤りをおかした人間にはきびしく、母親にたいしてはやさしく従順な息子、小学一年当時の恩師には、いま知っているすべてのことを教えてくれたとして感謝する人間、ということになる。この理想的な候補者は、その足はしっかりと黄金の過去を踏まえながら、明るく魅力的な未来に向かって跳躍する。子供をあがめ、両親を敬う。その妻はあるいは母、あるいは友、あるいは女神で、決して寝床の相手ではない、そういった妻のイメージがつくりあげられる」

このあたりの記述は、もう今回の大統領選でも一字一句のそのままトレースされている。

そして、『アメリカとアメリカ人』の中で最も印象深かったのは、アメリカ人の求める美徳がある種の「暴力」と結びついていることを語る次の箇所である。

「人びとの夢は大衆文学をつくるか、大衆文学への道を見つけだす。そして大衆文学もまた、いつも実際に起きた何かをもとにしている。絶えることなく書物、映画、テレビ番組で繰り返し語られるアメリカで一番生命の長い大衆物語は、カウボーイとピストルを持った保安官とインディアンの戦士の話である。こういう人間は実在したのだ。話に出てくるとおりではなかったし、数もそんなに多くなかったかもしれないが、とにかく実際に存在したのだ」

「アメリカの子供はみなカウボーイとかインディアンごっこをして遊ぶ。六連発銃と勇気を持って西部の社会に法と秩序と市民的美徳をもたらす勇敢で正直なシェリフは、アメリカで最も人気のある英雄だろうが、これは槍と剣でもって邪悪と闘い打倒した、勇敢な騎士道時代の鎧を身につけた騎士からきたものであることは疑いない。認識のしるしまで同じである。白い帽子に白い鎧、黒い帽子に黒い盾。しかもわれわれの心深くしみこんだこれらの道徳物語では、美徳は理性とか法の順序だった手続きからは生れてこない。美徳は暴力によって授けられ、堅持される」

――ここで書かれている「暴力によって美徳を授ける」保安官像は、ジョン・ウェインからクリント・イーストウッドに至る西部劇や刑事映画で連綿と描かれたきたものといっていいだろう。

最終的には、法ではなく、場合によっては法すらも踏み越える暴力こそが美徳をもたらすという正義観――これこそ、アメリカン・デモクラシーの最深部のコアにあるものなのかもしれない。

『アメリカとアメリカ人』の最終章では、60年代に進行した著しいモラルの退廃を憂えつつ、しかしアメリカ人がいまだに粗野な「エネルギー」を旺盛に保っていることに、スタインベックは希望を見出そうとしているが、これは老齢に達した国民的作家の半ば祈りのようなものだったのかもしれない。
「滅びゆく民は、現在に寛大であり、未来を拒否し、過去の偉大さと、半ば記憶にある栄光に満足感を見いだす。滅びゆく民は、変革にたいして防衛的兵器と傭兵で武装する。偉大さが後退すれば、偉大さにたいする信念も後退する。滅びゆく民は例外なく、詩は去った、美は枯れたとあきらめる。こうなると、かつて空にそびえた山やまもそびえず、女は美しくなくなる。陶酔感は消えて寛容になり、苦悩はやわらいで鈍痛となる。そしてビジョンは劇場のライトのようにかき消え、世界は終わりを迎える。詩人についていえることは、国民についてもいえる」

「アメリカ人がこのような絶滅の徴候を否定していることに、私の希望と確信がある。われわれは満足していない。すきっ腹をかかえた移民の祖先たちからの遺伝だろうが、われわれはまだ落ちつきのなさを失ってはいない。若いアメリカ人は、鼠の巣近くにいるテリア犬のように反抗的であり、怒り、かぎまわる。エネルギーは乱闘に、ストライキに、理想に、犯罪にさえあふれ出る。しかしそれはエネルギーである。エネルギーの浪費は、エネルギーの欠乏に比べれば、小さな問題なのだ」

今回の大統領選の混乱を見るにつけ、とにもかくにも、スタインベックが希望をかけた「エネルギー」は、いまだかの国では保たれているといえるかもしれない。

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