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どうして、マスコミは私に関して大げさな話を書くのだろう――『プーチン、自らを語る』

2000年、エリツィンの後継指名を受け、一回目の大統領就任間近のプーチンが、ロシア人ジャーナリストの質問に答える体裁で刊行された長編インタビュー。貧しかった少年時代のことから大統領就任までの半生が語られていて、一種の伝記的な性格も持った一冊になっている。

以下、印象的だったプーチンの言葉を引用。

「結婚するのに理由がいるのかね。最大の理由は愛だよ」(P14)

「戦争ではいつも多くのあやまちが犯されるものだ。それは避けられない。しかし、戦いの最中に、まわりの人間すべてがつねにあやまちを犯していると考えていたならば、絶対に勝てない。現実的であるべきだ。勝利を考えつづけなければならない」(P17)

「あの階段の踊り場で、私は「窮鼠猫を噛む」という言葉の意味をみずから体験し、頭に刻みこんだ。正面通路にはネズミが群れをなして棲んでいた。私はよく友だちと一緒に、ネズミを棒で追いまわした。あるとき大きなネズミを見つけ、私は廊下を追いかけて、隅に追いつめた。逃げ場はない。ところが、突然、ネズミはくるりと向きを変えると、私にとびかかってきたのだ。これには驚いたし、恐くなったよ。今度はネズミが私を追いかける番だ。踊り場を飛びこえ、階段を駆けおりてくる。幸いにも、私のほうがすこし足が速く、やつの鼻先でドアを閉めることができた」(P21)

少年時代のプーチンの家庭は貧しく、レニングラード(現サンクトペテルブルク)の公共アパートで暮らしていたそうだが、その階段の踊り場でネズミ退治をしたときの体験談。現在のウクライナ侵攻のメタファーとして反復されているようで興味深い。

「もし、私がスポーツをしていなかったら、自分の人生がどうなっていたか想像もつかない。町の通りから私を引き離してくれたのはスポーツだった。正直なところ、中庭は子どもにとってけっして良い環境ではなかったからね」(P33)

「柔道はたんなるスポーツではない。柔道は哲学だ。年長者や対戦相手を敬う。柔道は弱者のものではない。すべてに教育的な要素がある。ひとたび畳の上に立てば、互いに一礼をし、作法に従う。ほかのスポーツでは、これとはまったくちがうやり方をするかもしれない。対戦相手に一礼するかわりに、顔に一発パンチをお見舞いすることだってできるのだ」(P33)

街の不良少年だったプーチンは、柔道と出会うことで「真人間」になったという意識を持っているようだ。

「とにかく驚いたのは、全軍をもってしても不可能なことが、たった一人の人間の活躍によって成し遂げられることだ。一人のスパイが数千人の運命を決めてしまう。少なくとも、その頃の私はそう理解していた」(P37)

「KGBに対する私の思いはロマンチックなスパイ物語から始まったものだ。私はいわば、ソ連の愛国主義的教育の生み出した純粋かつ完全な生徒だったのだよ」(P58)

「私たちは全体主義国家体制のもとで生きていた。すべてが隠蔽されていたのだ。個人崇拝がどのくらい浸透していたのか。どのくらい深刻なことだったのか。私や友人はそれについて考えなかった。だから、私はロマンチックなイメージを抱いたまま情報機関に入ったのだ」(P58)

ゾルゲに取材した映画などを観て、スパイに憧れたプーチンは、それまで興味のなかった勉強にも力を入れるようになる。元々記憶力がよく頭の回転も速かったので、身を入れて勉強を始めると成績はぐんぐんよくなっていき、レニングラード大学(現サンクトペテルブルク大学)法学部に入学するほどになる。

大学卒業後、少年時代からの希望どおり、KGBのリクルートを受けエージェントになる。KGBで勤務するかたわら、スチュワーデスをしていたリュドミラ・シュクレブネワと出会い、3年半の交際を経て結婚するのだが、プロポーズの一幕にもプーチンの人となりが垣間見えるようで興味深い。

「ある夜、わたしたちが彼の家で座っていたとき、こう切り出されました。「もう僕がどんな人間かわかっただろう。一般的に言って僕はあまり愉快な人間ではないと思う」それから彼は自己批判をしはじめました。無口だし、ぶっきらぼうなところもあるし、人を侮辱することだってあるんだなどと言いました。安心して一生の相手として選べるタイプではない。そして、こうつけ加えました。「三年半つきあってきて、たぶんきみも決心がついていると思う」
 これは別れ話なのだと思いました。「ええ、決心はついています」わたしは答えました。「いいんだね」と彼は自信なさげに言いました。これでわたしたちも終わりなのねと思いました。でも、次に彼はこう言ったのです。「そうか、それならば、きみを愛しているから結婚を申しこむよ」わたしはその言葉にびっくりしてしまいました」(リュドミラ・アレクサンドロヴナ P81)

ペレストロイカが進み、ソ連が崩壊した当時、プーチンは東ドイツのドレスデンで諜報活動に従事していた。その際、プーチンはスパイ稼業に見切りをつけ、大学で研究者の道に進もうとした。しかし、レニングラード市長だったサプチャークに声をかけられ、政治の道に進むことになる。もしここで、プーチンが政治家にならず、学者になっていたら、その後の世界も大きく変わっていたかもしれない。

「じつのところ、すべての出来事は避けがたいことだと思っていた。正直な話、私が悔やんでいるのは、ソ連がヨーロッパにおける立場を失ったことだけだ。頭では、壁で仕切ることで築いたものなど長続きしないことはわかっていたがね。だから何か別の立場をヨーロッパで育てるべきだと思っていた。だが、その何かが提案されることはなかった。それがつらいことだった。ソ連はすべてを手ばなして、立ち去ったのだ」(P104)

「キッシンジャーは正しかった。もしも、ソ連が東ヨーロッパからあれほどあわてて出ていかなければ、我々は多くの問題を避けることができただろう」(P106)

政界で頭角を現したプーチンはやがてエリツィン政権で首相に任命されるが、彼が期待されていたのはチェチェン紛争の収拾だったようだ。

「私は一九九〇年から九一年の時点で、軍と情報機関に対する扱いは、とくにソヴィエト連邦崩壊後のそれは、国に脅威を与えるものだと考えていた。我々はすぐに崩壊寸前に追いこまれると。そして、今はカフカス地方だ。北カフカスとチェチェンの現在の情勢はどうなっているだろう。それはソヴィエト連邦の崩壊の続きなのだ。どこかでそれを止めなければならないことははっきりしていた。一時期、私は経済の成長と民主的な機関の出現によって、崩壊の過程が止められることを期待した。だが、経験と実践は、そうならないことを示した」(P178)

「悪党どもがダゲスタンを攻撃した八月には、私が考えていたのが次のようなことだった。この事態をすぐに終わらせなければ、ロシアは消滅してしまう。これは国を崩壊からふせぐという問題なのだと。私は自分の政治生命を犠牲にしても、この使命を果たさなければならないとわかっていた。私の政治生命など微々たる犠牲であり、それを払う覚悟だった。だから、エリツィンが私を後継者に指名して、誰もがそれを私の終着への第一歩だと考えたときにも、私はまったく平静だった」(P178)

「私には、すべてが明確だ。私が何ゆえに、ロシアにのしかかる脅威について確信を抱くに至ったか、話そう。誰もが私を冷酷だと言う。残忍だとまで言われる。それらは不愉快な形容詞だ。だが、チェチェンは自分たちの独立だけを目標にはしていないことを、私は疑ったことがない。そして、それは政治に関する小学生程度の知識があれば誰でも理解できることだ。やつらは独立を、ロシアに対するさらなる攻撃の足がかりにするはずだ。
 そして、侵略が始まった。やつらは軍隊を強化して、隣接した土地に侵攻した。その理由は? それはチェチェンの独立を守るためだろうか。もちろん、そうではない。それは、領土を切りとるためだ。ほうっておけば、やつらはダゲスタンを呑みこみ、それが終焉への第一歩になるのだ。次にカフカス全体――ダゲスタン、イングーシュを侵略し、さらに、ヴォルガ川流域からバシキール、タタールスタンとロシア内部まで手を伸ばすだろう」(P180)

「昨年夏、我々が始めたのは、チェチェンの独立に対する戦いではなく、あの地域で盛んになりはじめた攻撃的な野心に対する戦いだった。我々は攻撃しているのではない。みずからを守っている」(P181)

「多くの人が忘れてしまったが、一九四〇年代の終わりにNATOが創設されたときに、ソ連は参加する意思を示したのだ。しかし、彼らは認めなかった。それに対する返答として、我々は東ヨーロッパの諸国を集めて、ワルシャワ条約機構を創ったのだ。もはや存続していないが、それはNATOという同盟に直接対応したものだったのだ」(P220)

チェチェン紛争の頃から現在のウクライナ侵攻まで、プーチンのスタンスは揺るぎなく一貫している。彼の主観では、あくまで防衛戦争を戦っているということになる。こうして見てくると、今回のウクライナ侵攻は、ほとんどチェチェン紛争の反復のようにすら思えてくる。

今後のロシアは、西欧とは異なる独自の道を探す必要があるのか問われ、プーチンは次のように答えている。

「探す必要はない。すでに見つけているのだ。民主主義の発展の道だよ。たしかにロシアは特異な国だが、それでも西欧文化の一部なのだ。この国の国民は、極東や南方などどこで生活していても、ヨーロッパ人なのだ」(P211)

20年後の今も、彼は同じように考えているのだろうか。改めて聞いてみたい。

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