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『灰のもと、色を探して。』第4話:弟

 撫でてもらうには、いいことをしなければならない。
 何度かお願いはしてみても、母はただ撫でることはしなかった。手伝いを頑張ったり、言いつけをしっかり守ったりすると、母はひんやりとした手をアッシュの頭に乗せ、くすぐったくなるような優しさで、ゆっくりと動かした。
 少し恥ずかしくて、とても嬉しかった。言葉で褒めてもらうより、撫でられることが大好きだった。足らない、と文句を垂れても、母は時間を延ばそうとはしない。おしまい、の一言のもと、洗濯や掃除に戻ってしまう。姉が撫でられているところを見ると、ついでにとアッシュも近寄っていった。当然、お裾分けはもらえなかった。
 その母が、眠ってばかりいる。
 疲れているのだと、スミスは説明してくれた。いずれ治る、とも付け加えていた。
 母を見る度、痩せた、とアッシュは思った。食事は取っても、量は減っているらしい。
 母の代わりに、姉と二人で家事をすることになった。二人でどんなに頑張っても、洗濯物は汚れが落ちない。掃除しても、床はすぐに散らかり、埃にまみれてしまう。料理に至っては、残さずに食べたものの、本当においしくなかった。
 それでも、二人で相談して決めた。母の助けとなれるように、きょうだいで家事をきちんとやれるようになる。そうすれば、治った母が、また同じように体調を崩すこともないだろう。
 そして、きっと撫でてくれる。これだけ色々とやっているのだから、アッシュの望むままに好きなだけ撫でてもらおう。今のところなにをやっても姉の方が上手だが、もっと頑張って褒めてもらわなければ、と強く思った。
 教会の鐘が二回鳴る。通常では、日の出、正午、日の入りの三度。鳴らし方は五回。それ以外では、結婚式に三回と、だれかが死んだ時に二回鳴るのだと知っていた。墓を作り、棺桶に死者を入れ、土に埋める時。つまり、西日の今、そして二回鳴るのは、新たな死者が出たことを示していた。
 以前は、怖かった。そうならなくなってしまったのは、単純に慣れてしまったのだろう。
 かつてないほどの勢いで、病が流行っていた。アッシュの知るひとたちも、多くが罹患し、少なくない数が死んでいた。薬師の調合する薬は効果が出ず、結果として、清潔であり神に近い教会は、発症した人々が訪ね、療養する場となった。快癒すれば家に戻り、そうでない場合は、鐘が重々しく揺れる。
 母が床に臥してから、どれくらいが経ったのだろう。
 熱や痛みにうなされることはなくなったみたいだが、静かに衰えていっているように思えた。歩くことも適わず、スミスが仕事を休んで補助していた。傍に寄ることは、スミスに固く禁じられていた。あまり心配されるのもつらいから、子であるアッシュたちには普段通りに接してほしいのだと、スミスは母の意思を説明してくれた。
 その言葉に従い、二人は黙って日々を過ごした。家事もこなせるようになり、ミリアと比べても遜色ないと自負できるようになっていた。
 とても晴れた日だった。
 洗濯物を干し終えたあと、柄にもなく、空が高いと見あげていた。
「アッシュ、いるか」
 スミスに呼ばれ、振りむく。いつもと変わらない、髭の濃い顔だった。家のなかに入るよう、目配せをしてくる。頷き、アッシュは駆け足でスミスに続いた。
 母の部屋に入った。スミスは、母を見つめている。なにか用事を言いつけられているのか、姉はいなかった。
「アッシュ」
 母から発せられる声は、小さかった。雨が降っていたら、紛れてしまいそうなほどに。
「来たよ、おかあさん」
「もっと、近くに来てくれない?」
 スミスを伺う。かすかに、首を縦に振った。
「おかあさん」
「アッシュ」
 母が、右手を宙にあげる。反射的に膝を折り、両手で掴んだ。握り返される力が、あまりに弱い。動揺が体内を駆け巡ったが、理由は定かではなかった。
「すまないねえ、面倒かけて」
「そんなこと、ないよ」
 なにを、謝ることがあるのか。
「からだは、大丈夫なの?」
「どうかね。つらくはないよ。ミリアと、家事をやってくれているんだってね。本当なら母さんがやらなきゃいけないんだけど」
「いいって。気にしないでよ」
「そろそろ誕生日だったね、アッシュは。なんだか、背も伸びたようだねえ」
「まだ、ミリアのほうが大きい」
 息を震わせ、母は笑った。つられて、アッシュも笑みを浮かべる。
「すぐ、大きくなるさ。男の子は成長が遅いんだ」
「そうなの?」
「そうとも。だから、スミスの言うことをしっかり聞いて、ミリアと仲よくね」
「してるよ」
「そうかい」
「けんかもよくする」
 母は、今度はわずかに声を立てて微笑んだ。
「それじゃあ、もうひとつだけお願いをしていい?」
「お願い? よくわかんないけど、いいよ」
 妙だと思った。このような言い方を母がしてくるのは、はじめてのことだった。
「ありがとう。お願いというのはね」
 視線を窓にむけ、母は息を吸って、そして吐いた。
「ミリアのこと。あの子は、頑張り屋さんなんだよ、そりゃあ、アッシュもそうだよ? お姉ちゃんに負けまいとするアッシュと同じでね。それで、ミリアはすぐ無理をしようとする。姉としてちゃんと振舞えるように、みんなには不満ひとつ言わずに。自分を殺してる。そういうところは、お父さんによく似ている」
 そうなのか、と思ったが、言葉には出さない。父というものが、アッシュにはよくわからなかった。覚えていることは、なにもない。
「だけど、やらなくていい、と言っても、やろうとするんだよね。それが自分の本心ならいいんだけど、多分、そうじゃない時がある。なにかに縛られているんだとしたら、それほど苦しいことはないよ」
「しばられている?」
「年上、姉、女。そういったものにね。もちろん、やるべきことをやることは大事なことだよ。でもね、若いんだし、そればかりでもいけないと思うのさ。子どもの時くらい、子どもでいればいいのにってね」
 細めた眼を、母はこちらにむけてきた。そして、握られた手を解き、さらに高くあげる。
「難しい話をしちゃったね。話すのが久々だから、ついつい楽しくて、長く喋ってしまう」
 アッシュは、首を横に振る。母は、アッシュの頭を撫でてきた。弱々しくも、確固とした手つきだった。忘れかけていた感覚に、アッシュは顔全体が熱くなってくる。
「どうしたの、急に」
「最近、撫でてなかったと思ってねえ」
「でも、撫でてくれるのは、なにかいいことをした時じゃなかったの?」
 アッシュの返しに、母は殊更嬉しそうな表情を作った。
「そんなことを考えていたのかい、アッシュは」
 返答に詰まる。なぜだか、恥ずかしかった。
「なら、もっと撫でなきゃね。今までの分も、これからの分も」
 どうして、未来の分も撫でるのか。思っても、尋ねられなかった。訊いてはいけないと、そう思わせるなにかが、母から伝わってきているようだった。
「アッシュ」
「うん」
「守ってあげてね、ミリアを」
 その言葉で、唐突に甦る記憶があった。
「それ」
 なんとか、声を絞り出す。
「どうしたの?」
「それ、おとうさんも言ってた」
 ないと思っていた、父の記憶だった。面を食らったような顔をしてから、母は笑った。
「まったく、あのひとったら」
 撫でる手に、少し力が籠められた。
「そういうところだけ、わたしと似ているんだから」

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 数日後、母は死んだ。
 姉と市場に食糧を買いに行っていて、二人は最期を看取ることはできなかった。眠るように息を引き取ったと、スミスは言っていた。
 母に限って、伝染病に罹ったわけではないと、どうして思いこんでいたのか。それを選択肢からはずすことで、母が死なないと信じていたかったのか。ほかの罹患者のように、母はなぜ教会へ行かず家にいたのだろうか。それでも、驚きはなかった。きっと、母は家にいたかったのだ。あの日呼んでくれたのは、自分が死ぬことを伝え、心構えをさせてくれたのだ。
 母の死を聞いた時、姉は震えていたが、涙は見せなかった。もしかしたら、そのあとどこかで泣いたのかもしれない。
 もう、あの手に撫でられることがない。
 夜、寝床に入ると、涙が流れてきた。泣いているとは思わなかった。ただ、別れを惜しむように、その思いをかたちにするように、涙は止めどなかった。
 スミスに、訊きたいことができていた。
 翌朝、家の裏で、スミスと話す姉を見た。入っていこうか悩んだが、二人の間に妙な緊迫感を覚え、思わずアッシュは壁に隠れて聞き耳を立ててしまう。
 周囲にひとがいないにもかかわらず、二人の声は囁くようだった。聞き取れず、じりじりと近づいていく。それでも、次第に姉の声は大きくなってきていた。
 ショウカン。
 その言葉が聞こえた瞬間、姉はスミスに頬を打たれていた。立ち尽くしてから、姉は頬を手で押さえ、その場から走り去っていく。姉の背中を眼で追いながら、スミスはこれまでに見たことのないような表情を見せていた。鬼と見違えるほど厳しかったが、必死に歯を食いしばり、なにかに耐えている。打った右手を、きつく見据えていた。
「スミス、ちょっといい?」
 出ていき、話しかける。姉を追いかけるより先に、知りたいことがあった。
「アッシュ、見ていたのか?」
 ゆっくりとこちらをむいたスミスは、もう普段通りの固い顔つきに戻っていた。
「うん」
「いつか話す。今は、忘れてくれ」
 黙って、アッシュは首を縦に振る。スミスは、拳骨を振りあげる時、手加減を加えるひとだった。先ほどのは、明らかに強い。それは、姉がなにかいたずらをしたとか、スミスが叱るとか、そういうものとは別のものだと思った。
「なにか用か?」
「ああ、そうだった」
 どう言葉にすればいい、と束の間アッシュは考えたが、そのまま訊いてみることにした。
「姉ちゃんを、守りたい。ぼくはどうしたらいい?」
 見あげる。スミスなら、姉を守れると思った。自分の倍はある背に、鋼のような躰。ただ、自分がスミスに近づくには、時間がすごくかかる。そんなに待てるわけはなかった。
 視線はずっと、合ったままだった。スミスの眼が、少しやわらかくなった気がした。
 頭に、スミスの手が置かれていた。撫でるという感じではない。それでも、熱はじんわりと伝わってくる。
「アッシュ、お前は、勇気のある人間だ」
 褒められたのか、と思った。嬉しさは湧いてこない。
「まずは、その思いを持続することだ。今日だけなら、だれでもできる」
「うん」
「次に、耐えることだ。機会は、いつ与えられるかわからない。決して焦るな。時間はかかる。だが時の流れで、思いを腐らせてはならない。腐り、たるんでしまった思いは、引き締めるのが難しい。そしてその時に機会が来たら、なにもできない」
「耐える、こと」
 待てない、というこちらの考えを、察せられているようだった。言い聞かせるように、アッシュは言葉を繰り返す。スミスがここまで話すのは、これまでに見たことがなかった。
「そうだ。アッシュ、お前はまだ幼い。ミリアを守りたいと思うなら、まずは時間に耐えろ。待つことも勇気だ。だが、それでも、なにかをしなければならないと、ミリアのためにやらなければならないと、そう思うことがあった時は、俺を頼め」
 大きな手が、頭から離れる。スミスの瞳が、光を放った気がした。
「そして、頭と躰が整ってから、今まで耐えてきた分を爆発させたらいい」
 スミスは、踵を返して去っていった。
 しばらくして、ひとつ歳を取った。十歳は節目だと、スミスに言われた。青いながらも、次の十年間は自分で考える毎日にするようにと、言いつけられた。
 そして考えなくても、することは決まっていた。
 姉を守る。母の想いは父と重なり、アッシュの信条となった。しかし、時間だけは、どうにもならなかった。耐える、と毎日思い続ける。
 必要なものは、なんだって手に入れる。力も金も。もう少し背が伸びたら、スミスに頼みこんで、働かせてもらおう。変えるべきなら、自分さえ進んで変える。姉に守ってもらわなくてもいいように、強くならなければならない。
 まずは、常に笑顔でいようと思った。それなら、時間をかけずにすぐできる。どこにも不安などないのだと、姉に安心してもらおう。
 二人きりの、家族なのだ。

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こちらのイラストは、おかわ様に描いていただきました。
改めまして、この度はご協力いただきありがとうございました。

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