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『灰のもと、色を探して。』第13話:決断

 月は、やや翳っている。
 窓から入りこむわずかな光を見て、アッシュは思った。
 灰の国から帰着後、まずはスミスに報告を入れることになっている。日暮れに伴って戻るため、常にそれは夜に行われていた。
 道行く間に見つけた動植物の観察記録や、魔物との戦闘結果、そして、新たに身につけた魔法の詳細。
 しかし、ここまで暗鬱な夜は、はじめてだった。
「認められん」
 スミスは、先ほどから発言を変えない。
「行かせて」
 姉も、同じ言葉を紡ぎ続けている。
 灰の国から戻ると、堰を切ったようにはじまったギマライの顔の流血や、腹部を押さえてその場に座りこむ姉を見て、スミスは珍しく声を荒げた。無理もない、とアッシュは思う。灰の国での外傷は、こちらだと消える。しかし、その代償とでも言うかのように、躰の中を痛苦が這うのだった。アッシュは、鈍い痛みを右腕に覚え、あとはいくらか、額に熱を感じている。
 用意された寝台にすぐさま飛びこんだギマライや、立てるようにはなったものの、口数の少ない姉に代わり、アッシュは経緯を説明した。造物主の石庭での出来事、再創世ができないこと、ゾヴと敵対し、攻撃を受けたことを。
 ひと通り聴き終わると、スミスは唸った。それから、憤怒は当然として、悔恨を包んだ顔を見せた。危険だとわかっていて、それでも自分たちの調査を止められなかったことに、憤っているのかもしれなかった。
 時間だけが過ぎ、室内灯が皆を照らしている中、しばらくして姉は一言、行かせて、とだけ言ったのだ。そして、スミスは猛烈な勢いで拒否を示した。
「ギマライ、いつまで見ている」
 大きく、スミスは息を吸い、そして吐いた。
「容赦ないですね、スミスさん」
「軽口を叩けるなら、大丈夫だな」
 言われて、ギマライは少しずつ上体を起こした。鼻血はようやく止まったようだが、頭痛は今もなお続いているのか、眉は寄せられたままだ。
「まず、ミリアの発言は無視するべきです」
 静かに、姉はギマライに眼をやる。ギマライは、いつものように振る舞っているが、その姉の視線からひりひりするものを、アッシュは受け取っていた。
「先ほどはアッシュに説明を任せましたが、この調査と、業務の権限は私に委譲されている認識です。スミスさんも、相違ないと思いますが」
 スミスは、軽く頷いた。
「なら、今後の調査の進退に関しては、私が決断し、申し上げるべきでしょう。それを弁えない彼女の発言は、ただの感想です。お忘れください」
「それで、どうするんだ」
「事態は、非常に大きくなっています。当然、しっかりと吟味すべきでしょう。ですので」
 姉とアッシュ、それぞれにギマライは少し眼を配った。
「三人で話し合いたいです」
 業務的とも思える、抑揚のない声だった。姉は、ギマライをむいている。その顔から、ふと緊張が抜けたように見えた。
「スミスさん、席を外してくださいませんか。明日の朝までには、決めます」
 深々と、ギマライは頭を下げた。その姿がなぜか胸を衝き、アッシュは自分の躰の中心が熱くなるのを感じた。
「ミリアがあれだけ行きたいと言っている中、普通なら真っ先に手を挙げて擁護しそうなアッシュが、静かなのも気になりますし」
 スミスは、表情を変えない。ただゆっくりと、髭を手でなぞった。ギマライは頭をあげ、スミスを見る。口調こそ普段と同じでも、その言葉の質が、どこか違っていた。揺らがない芯が声の中にある、とでも言えばいいだろうか。
「私より若く、言動も幼さが目立ちますが、別世界へ行ける契機を作った時点で、二人はこの件の功労者です。ミリアはそのうちのひとりであり、先ほど未曾有の危機に晒されたにもかかわらず、調査を続行したいと譲りません。また、逆にアッシュは、調査を開始した当初はあれだけ前のめりだったのに、今は静観に徹しています。二人の意見を、きちんと反映したものにしたいと、私は考えています」
 鼓動が跳ねる。どれだけ繕ってみせていても、ギマライにはやはり通じないのか。
「駄目だ」
「スミスさん」
「俺はここにいる。が、いないものとし、意見をまとめろ」
 言って、スミスは後ろへ下がり、ゆっくりと椅子に腰を落とした。
「ありがとうございます」
 ギマライは、こちらを見てくる。少しだけ、顔に安堵を覗かせていた。
「ミリアが行きたい理由は、ヒューのため?」
「ええ。もう一度、話をしたい」
「うん、そうだね。じゃあ、アッシュは?」
「俺は」
 眼を閉じると、さまざまなものが胸に去来した。姉、ヒュー、ゾヴ、両親。そして、ギマライからの問いかけ。
 自分の、本当にしたいこと。
「俺は、怖い」
 視線が、落ちてしまう。姉の顔を見られなかった。
「灰の国にいると、自分が壊れていく気がするんだ」
 言って、どうにかなるのか。わからないが、もう止め方もわからなかった。
「早く大人になって、姉ちゃんを守りたかった。お父さんとお母さんとの、たったひとつの約束なんだ。そのために、成果が欲しくて、発掘も調査も、進んでやろうとした。灰の国は楽しかった。強くなれたと思った。姉ちゃんを守る、という約束も、どこかで忘れていたのかもしれない。だから、ギマライさんに訊かれた時、すぐに、姉ちゃんを守りたいって、返せなかった。そんなわけないのに。そんなわけは、ないのに」
 言葉がやまない。泣いているのも、隠しようがなかった。
「ゾヴに会っても、なんだか俺はぼんやりしたままで。多分、あいつの魔法だったと思うんだけど、声の心地よさに、喜びを感じてさえいたんだ。不安が消えていくような感じで、安心してしまったんだ。そしたら、姉ちゃん、気づいた時には、ギマライさんに支えられてて。ゾヴに、やられてて。頭の中、真っ白になった。それであとから、ああ、俺は怖いんだって思った」
 幼い、若いとは思っていた。弱いとは、思ってもいなかった。

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「全然、俺は強くなってなかった」
 だれにむけて、話しているでもなかった。途切れ途切れに、呟くように声は出て行く。
「俺には、姉ちゃんを守れない。灰の国に行けば、またその思いを味わうことになる。だから、行きたくない。ごめん」
 震えている。抑えるように、両手を強く握った。
「アッシュ」
 姉の声に、躰が反応してしまう。それでも、顔をあげることはできなかった。
 窓をたたく風が、勢いを増している。言ってしまった後悔と、妙な清々しさが、アッシュを捉えていた。
 あとで、両親の墓に謝りに行こう。両親は、こんな不甲斐ない息子を許してくれるだろうか。
「姉ちゃん、ごめん」
「俺は、それくらいでいいと思うよ、アッシュ」
 遮るようにして、ギマライは言ってきた。
「むしろ、やっとアッシュの本心が見えたように思える」
 笑っているわけではない。しかし、とても優しい表情だと、アッシュは思った。
「ずっとおまえは、ミリアミリアって、うるさくてね。恋人でもあるまいし、なんか変だなって思っていたんだ。でも、ごめんな。本当のところを訊きたくて、あんな質問をしたんだけど、揺さぶったみたいになってしまって。時機が本当によくなかった」
 気づけば、顔はあがっていた。姉の方は、まだ見られない。
「ゾヴの強さを直視して、震えあがらない方がおかしい。今のミリアは、ちょっと異常。でもまあ、普通はみんな、そういう恐怖や不安と綯い交ぜになりながら、行動するものなんじゃないかな」
「それは、ギマライさんも?」
「あまり白状したくはないけど、結構怖がりだよ」
 ギマライは、耳のあたりを掻く。
「本当にやりたいことをやるのは、大変なんだ。自由には、すごい熱量が要るし、不安で怖い。だからみんな、だれかのせいにして、自分に嘘をついて、やりたいことを妥協していく。だれかに言われたから、指示されたから、約束したからってね」
 おなじみの笑みは、既になかった。決して声は大きくない。それでも、場にいる全員を底から打つような、不思議な強靭さがあった。
「アッシュ、おまえは壊れているんじゃないよ。変わりはじめているんだ」
 眼の醒める、思いだった。沈みきっていた心の、重しがはずされたような感覚を得る。自分が変わろうとしている。そんなことは考えたこともなかった。
「ここで怯んで、留まるか。恐れず、変化を受け入れるか。それを決めるのは、アッシュ、おまえしかいないんだ」
 言い切ってから、ギマライは小さく笑い声を立てた。
「まあ、俺も最近、それを知ったんだけどな」
 一瞬だけだが、スミスの表情が緩んだ気がした。今はもう、普段の硬さに戻っている。
「アッシュは、ゾヴが怖い?」
「うん、すごく。会いたくもない」
「でもきっと、ほかに感情があるんじゃないか」
 言われて、自ずと姉を見ていた。眼が合う。あれだけ見ないようにしていたのに、今度は眼を離せなくなった。悲しげな顔を、姉は見せていた。
 姉の倒れる瞬間が、脳裏に浮かぶ。細切れに、しかし鮮明に記憶として残っていた。
 併せて、ふつふつと足先から登ってくる思いがある。それは頭に拡がり、噛み合わせた歯が、ぎりぎりと鳴りそうだった。
「悔しい。俺は、ゾヴになにも通用しなかった。姉ちゃんをやられたのに、あいつに冷や汗ひとつかかすこともできなかった。それが、いや、そんな自分が、悔しくて許せない」
「だそうだ。ミリア、どう思う?」
 ギマライから話を振られても、姉はこちらに視線をむけたままだった。
「姉じゃなく、ひとりの人間として、ここまで思ってくれていることに気づけなかったのが、わたしは不甲斐ない。ありがとう、アッシュ」
 言葉が出ない。頷くべきなのかもわからず、ただ微動せずに立ち尽くした。
「お父さんもお母さんも、アッシュにそんなことを言い遺していたんだね。知らなかったよ。まあ、そういうところが被るのは、あの二人らしいや」
 少し笑みを見せると、姉は横をむき、スミスの作業机に浅く腰をかける。
「わたしも、悔しい」
 やや上に顔をあげてから、姉は眼を閉じた。
「ヒューともう話せないことも、ゾヴからの攻撃に反応できなかったことも、悔しい。動揺していて、とか、言い訳はいくらでもできる。それでも、できなかったことに変わりはない。両方とも、自分の弱さが原因。それが悔しい」
 眼は、まだ開かれない。泣いてしまうのを堪えているのか。なんとなく、アッシュはそう思った。
「やっぱり、きょうだいだな、おまえら。似てるよ」
 低い笑い声が、ギマライからこぼれる。そして彼は、人差し指を立てて、こちらに示してくる。
「二人とも、ひと月、俺にくれないか」
「どういうこと?」
 姉は、上をむいたままだ。
「二人の言いたいことはわかった。その上で、提案しているんだよ、ミリア」
「だからその一ヶ月で、なにをするのよ」
「鍛錬」
 ギマライを見た姉は、懐疑的な表情を見せていた。
「ゾヴを、完膚なきまでに叩き潰すためにね」
「勝てるの?」
「さあ。正直なところ、まだわからない。だから、時間をくれと頼んでいる。なんにせよ、そのまま挑んだら、また負けることに変わりはない」
 負ける、という言葉が、鋭く耳に刺さる。姉も同然のようだった。
「怖くて、悔しいんだろう? そういうのは、もう一度同じ舞台に立たないと、なくせない。まあ、戦わなければ、そもそも負けることもないんだけど。嫌なものに蓋をして生きるのも、ひとつの選択ではある」
 夜も深まり、風はさらに強まってきていた。それ以外に、音はない。
「俺、やっぱり灰の国に行きたい」
 恐怖は、皮膚の薄いところを、虫のように這いずっている。それを否定することは、もうやめた。すべて、抗いようのない自分の正直な姿だった。怖いから、なんだと言うのだ。
「ゾヴと戦ってから、ずっともやもやしてる。何度も、思い出しては、頭を抱えそうになる。それをなくせるなら、ひと月くらいなんでもない」
「ミリアは、どうする?」
 掛けていた机から離れると、ギマライの前にミリアは立った。
「どうもこうも、わたしは行くって最初から言ってるじゃない」
「わかった。ありがとう、二人とも」
 言うなり、ギマライはスミスを見た。
「スミスさん、結論が出ました」
 落としていた視線を、スミスはあげる。その顔に、険しさといった拒否を感じさせるものは見当たらなかった。
「ひと月の準備期間を経て、再度調査を続行する。これが、最終的な意見です」
「勝算は」
「二人には、わからないと言いましたが、あります」
「そうか」
 試されていたのか、と思う。条件を厳しくしても、ギマライの案に乗るかどうかを、見るために。そこまでの熱が、自分たちにあるかを確かめるために。
「再度損傷を負う可能性は」
「あります」
「ミリアとアッシュが、死ぬことは」
「前例がありませんので、灰の国での死がこちらでどう影響するかわかりませんが、否定はできません」
「ミリア、アッシュ」
「はい」
「うん」
 スミスからの呼びかけに、二人の返事が重なる。姉のように敬語を使うべきだったが、自分の本心を伝えるには、自然と出てきた言葉で応じた方がいいと思った。
「行くのか」
「はい」
「うん」
 再度、重なる。ただスミスを見て応えた。姉も同様だった。スミスの硬い眼が、二人に等しく注がれる。そして、その眼が柔らかくなった。
「了承する」
「ありがとうございます」
 ギマライが言い終わる前に、スミスは腰をあげた。大きな躰だといつも思うが、今夜は格別にそういう印象を受けた。
「勝てよ」
 踵を返し、スミスは部屋を出て行く。おそらく、この言葉はギマライにむけたものだろう。しかし、自分と姉に対しても言ってくれているのだ、とアッシュは感じた。
 扉が軋み、閉まる音が響いた。
「とりあえずは、なんとかなった」
 肩をおろして、ギマライは長く息を吐いた。
「ギマライ、勝算って?」
「一ヶ月、なにをするの?」
「いっぺんに来るな、きょうだい」
 再三姉と声が重なり、互いに見合う。
「今日は寝る。二人とも疲れているし、俺も正直なところ参っている。具体的な話は明日だ」
 二人からの返答も待たず、ギマライはゆっくりと部屋を後にした。
「アッシュ」
「姉ちゃん」
 また、同時に声を出してしまう。このまま帰ってはいけない、とアッシュは思っていた。話さなければならないことがある。姉もそうなのだろうか。
「ずっと、ありがとね」
 近寄り、姉は頭を撫でてきた。少し恥ずかしく、そして、あたたかだった。
「時折、アッシュはすごく必死になる時があるなって、思ってた。それは、わたしのためだったんだね。本当に、気づけなくてごめん」
「こっちこそ、姉ちゃんのことも考えず、守りたいって自分の思いを押しつけてた。それを姉ちゃんのためだって、思いこんで。ごめん」
「いいよ、謝ることなんてない」
「姉ちゃんも、謝らなくていいよ」
 姉は、困ったような笑みを浮かべていた。きっと、自分も同じ表情だろう。
 撫でるのが、とまる。抱きしめられていた。
「また、わたしは無茶をする。ヒューにもう一度会いたい、と思う自分のために、ゾヴを相手に戦う。わたしひとりじゃ、全然及ばないんだ。だから、アッシュ、次も守ってくれる? わたしもアッシュを守る。お互いが、お互いのために、お互いを守ろう」
 やわらかな感触のなかに、力強さを感じる。鼓動は、静かに鳴っていた。
「守るよ」
 当たり前じゃないか。
「何度だって、俺は」
 姉ちゃん、と言いかけて、噤む。
「ミリアと一緒に、戦う」
 はじめて、姉を名で呼んだ。湧きあがる感情を、できるだけ籠めて。抱き締める。思えば、自分から抱き締めるのも、はじめてだった。ミリアの腕がかすかに緩み、また力が入る。
 眼に熱が宿っていた。炎が体内を蠢いているようだ。
 とうに風は、やんでいた。

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こちらのイラストは、木塚カナタ様に描いていただきました。
改めまして、この度はご協力いただきありがとうございました。

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