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【短編】忘れない。

ここはいつも連れてきてもらうところ。
シャンプーをしてきれいにしてもらえるところ。
じっとしていなくてはいけないし、爪を切られることや足のうらをいじられるのは嫌い。
でも、がまんしていればあの人が迎えにくる。

ここに連れてこられて何日が経っただろう。
ぼくはずっとここにいる。
お店の人はやさしくしてくれるしご飯もくれるけれど、やっぱりここは落ち着かない。
他の犬は来てすぐ帰って行ったり、しばらくいてから帰っていったりいろいろで、ぼくがここに来る前からいる犬はいない。
あの人はいったいいつになったら迎えに来てくれるんだろう。


ああ、そうだ。
こういうことは前にもあった。
ある日、前の人が家に帰ってこなくなった。
ぼくはずっと家で待っていたけれど、ずっとずっと帰ってこなかった。
おなかも空いていた。
自分が排泄したものも、おなかが空いていたから食べた。
でもそれもだんだん出るものがなくなって、空腹で寝てばかりいた。
目が覚めたときは、締め切られた窓から毎日外を見ていた。
ベランダには鳥が来ていて、楽しそうに弾んでは飛んで行った。
夜は暗くて、しんとしていた。
ときどき外で聞こえる車の音や人の声に、ぼくは驚き不安になった。

何度かドアを開けようとしてみたけれど、ドアは開かなかった。
吠えてみたけれど、何も起きなかった。
ドアの外で音がするたびに玄関で待ってみたけれど、その音は通り過ぎて、あの人が帰ってくることはなかった。

眠っている時が唯一、幸せだった。
空腹も、ひとりぼっちのことも、全部忘れられるから。
でも目覚めると、ぼくは現実を知る。
前の人はいない。
おなかがすいた。
ぼくはひとり。

目覚めは、ぼくにとっては拷問だった。


物心ついたときから、ぼくは前の人と暮らしてきた。小太りなおばあさんだ。
ごはんをくれるのもゆっくり。お水をくれるのもゆっくり。散歩もゆっくり。
散歩はもっと早く歩きたかったし、時には走りたかったけど、ゆっくりな動作は前の人の優しさをそのまま物語っているようで、ぼくは一緒に暮らしていて心地よかった。
部屋にはいつもぼくと前の人だけ。
ぼくと前の人だけの世界。
それがぼくにはとても幸せだった。
ぼくをなでてくれる手。いつもぼくがあごを乗せてくつろぐぶあつい膝。
「今日はいい天気だねぇ。」とか「雨だね。散歩は行けないけど植物が喜ぶねぇ。」とか、ぼくに話しかけてくれる少し低い声。
ぼくは全部が好きだった。

ある日、前の人はいつものように家を出て行った。

帰ってきたら手提げから何が出てくるかな。
ぼくのおやつはあるのかな。

前の人も、部屋の中も、いつもと変わらない。
前の人が部屋の中で羽織っている上着は、椅子の背もたれにかかったまま。
あの人はいつもすぐに帰ってくるから、ぼくはドアの外で気配がするたびに玄関で待っていた。
・・・でも、前の人は帰ってこなかった。
こんなことは今までなかった。

それから何度夜が来ただろう。
何度朝が来ただろう。
前の人は帰ってこなかった。

そのうち、ぼくはもう、ドアの外で物音がしても玄関で待つことはなくなった。
期待して裏切られるのに疲れてしまったからだ。どうせこのドアは開くことはない。
 
ひとりでよく、窓辺の陽だまりでまどろんでいた。
この陽だまりで、ぼくは前の人とよく一緒に過ごした。
前の人の匂いも、手の感触もないけれど、陽の光は心地いい。
陽の光はまるで前の人の手のように、ぼくを変わらず優しく包んでくれた。ぼくがひとりぼっちであることを忘れさせてくれた。

でもある日、ドアが突然開いて、知らない人が入ってきた。

誰だ、この人。これは夢?

ぼくは驚くこともなく、まどろみながら人が入ってくる光景を見ていた。
不思議と喜びも恐怖もなくて、ただぼんやりと、知らない人がぼくたちのこの家の中で何かを探している様子を見つめていた。
しばらくして、とうとうその人はぼくを見つけた。
そしてそっと抱き上げて、持ってきた小さい入れ物にぼくを押し込もうとした。
今起きていることがよくわからずにぼーっとしていたぼくは、初めてはっとした。

いやだ。さわるな!
ここはぼくの場所だ!
ぼくはここにいたい。
前の人が戻ってくるまで待つんだ。
前の人に会いたいんだ!
またなでてもらうんだ。
また一緒に眠りたいんだ!

抵抗しなくては・・・!
でもぼくはされるがまま、小さい入れ物に押し込められた。
黙って固まることだけしかできなかった。
急なことで何が起きているのかわからなかったこともあったし、怖かったし、それ以上にあまりにも体力がなかったんだ。

そこからはあまり覚えていない。
たぶんシャンプーされて、ご飯をたくさんもらって、たくさん眠ったんだと思う。
前の人が帰ってこなくなってからの出来事について、それらが起きた順番も見たことも感じたこともすべてがぐちゃぐちゃで、ぼくがそれを受け止めるには時間が必要だった。
空腹を満たし、少なくともここは危険な場所ではないことがわかってくると、状況がだんだんわかってきた。
ぼくはあの部屋からは出られたけれど、今度は知らない部屋に閉じ込められている。
そこにはたくさんの犬がいて、遊んだり喧嘩したりしていた。
その部屋には人も入ってきて、掃除をしたりご飯をくれたりした。
ぼくは遊ぶことにも喧嘩することもなく、じっと部屋の隅で過ごしていた。

ここはどこ?
部屋に入ってくるこの人は誰?
前の人はどこ?
ぼくはこれからどうなるの?

部屋の隅で小さく固まりながら、ぼくの頭の中はこれらのワードでいっぱいだったけれど、なにひとつとして答えは出てこなかった。
散歩も時々させてくれた。
あんなに大好きだった散歩なのに、他の犬と一緒で知らない道で、そもそもぼくは紐を持つこの人も知らなかったので、緊張するだけだった。
ここでは空腹になることはなく、その意味では快適だったけれど、犬にも人にも、ぼくを見たり、声をかけられたり、近寄ってこられたりされるのは本当にいやだった。

ぼくはここにはいません。
だから放っておいて。

とにかくその部屋から出ることだけを考えていた。
ただただ、部屋から出たかった。
それだけ。

部屋から出たいと願うぼくの気持ちとは裏腹に、その部屋で過ごす時間は続いた。
ぼく以外の犬は、急にいなくなったり、急に新しい犬が来たり、いろいろだった。
そのたびに、犬同士の関係が変わっていたけど、ぼくは相変わらず、他の犬と遊んだり喧嘩したりすることはなかった。

そうした毎日を過ごすうちに、ぼくはなんとなく、もう前の人とは会えないんだ、と思うようになった。
時間が経つにつれて、前の人はもういないと思うようになっていったんだ。
時間とともに徐々に、徐々に。
どうしてそう思うのかわからない。
でも、ぼくの中では、間違いなく、それは確信になっていった。


ある日、あの人が来た。
いろいろな犬がいるのに、まっすぐにぼくのところにやってきた。
ああ、なんでこっちに来るんだろう。

ぼくはここにはいません。
放っておいて!

部屋の隅で固まりながら、ぼくは全身でそう訴えたものの、あの人は遠慮がちにぼくの方に歩いてくる。

「こんにちは。」

あの人はそう言って、ぼくの前にしゃがみこんだ。
その時、怖くて固まっていたぼくの心に電撃が走った。

ああ、この香り。
前の人と同じ香り。
でも違う人だ。
あたりまえだ。
前の人はもう、いないのだから。

ぼくはその香りに導かれるように顔をあげ、あの人を見た。
やさしそうな瞳、笑みを浮かべた唇、そして淡い柑橘の匂い。
それらは、ぼくの気持ちを少しだけ和らげた。少しだけ。

それから何度かあの人はやってきて、ぼくをなでたり、抱き上げたりした。
あの人の手はとても心地よく、何よりもあの人は、他の犬には目もくれなかった。
甘えてくる犬たちのこともやさしくなでていたけど、すぐにぼくの方を見て、もっとたくさんなでてくれたんだ。
そのたびにぼくは、柑橘の香りにつつまれ、前の人と一緒にいるような気がした。

ああ、一緒に過ごしたあの部屋。
やさしく包み込んでくれる手。
窓辺の陽だまりで一緒に過ごした時間。

目を閉じると記憶がどんどん鮮明になっていく・・・。
でもこの人は前の人じゃない。
この人の手は、前の人のようにまるくはなく、細くて骨ばった手。
おばあさんではなく、若くて長い黒髪の女の人。

あの人が来るたびに、ぼくは混乱した。
あの人の香りをかぐたびに、前の人との優しい記憶と、ある日突然ひとりになった時の怖くて不安な記憶が複雑に絡み合う。
そしてあの人を見上げて思う。

この人は前の人じゃない。
前の人はもういない。

あの人が部屋から出ていくと、ぼくはまた犬がいる部屋の隅でひとりになる。
今のはなんだったんだ。
何も変わらないこの風景。
ぼくの嫌いな灰色の風景。

ぼくを放っておいて!
ぼくの気持ちを弄ばないで!

ぼくはあの人が部屋から出ていくたびに失望した。

それでもだんだんぼくは、部屋のドアが開くたびにあの人が来たかどうか気になり始めた。
たいていは部屋を掃除したりご飯をくれたりする人だったから、そのたびにほっとするような、気が抜けたような、複雑な気持ちだった。
こんな風に心がざわつくのは、疲れた。
ずっと穏やかで凪いだ気持ちでいたい。
もうさんざん、ぼくの気持ちは荒れ狂ったじゃないか。
もうこんなの、たくさんなんだ。

ある時、ぼくはまた突然、小さい入れ物に押し込められた。
前の人の家から無理やり連れだされた記憶がよみがえる。
またどこかに連れていかれる。
今までいた部屋からは出たいと思っていたけど、それは自分のタイミングで、自分の足で、自分が決めて出ていくことだった。
こんなに急に、無理やり連れ出されることじゃない。
こんなことになるなら、この部屋にいたほうがマシだ。
どうして部屋から出たいと願ったのだろう。
部屋から出てどうするかも考えていないくせに、どうしてそんなこと思ったんだろう。
考えが浅かった自分を呪った。

入れ物から出されたとき、ほのかに柑橘の香りがした。
前の人の匂い。
そしてあの人の匂い。

「こんにちは。」

そこには、笑顔のあの人がいた。


「おはよう」
「ごはん食べる?」
「お散歩行こう」
「ただいま」

あの人の言葉は、どれもぼくは大好きだった。
あの人との心地よい毎日が、前の人との優しい記憶を上書きしていく。
ぼくは今、この人と暮らしている。前の人とじゃなくて、この人と。

あの人が部屋を出ていくとき、ぼくは不安になる。
帰ってきてくれるのだろうか。
ぼくはまた、ひとりぼっちなのではないか。

それでもあの人は、必ず帰ってきてくれた。
だから、外で音がしたときは、ぼくは玄関で待つようにした。前と同じように。
でももしかしたら帰ってこないかもしれない。だから期待してはいけない。
期待しなければ、あの人が帰ってきたときに嬉しさだけで満たされるから。

ああ、それなのに!
どうしてぼくはずっとここにいるんだろう。
前の時のような空腹で水もない状態ではないけれど、ぼくはここが嫌いだ。

お店で別れるとき、あの人はいつものように笑顔でぼくに「じゃあね。」と言った。
あの日の「じゃあね」は、もう来ないよ、という意味だったのか。
ぼくにはわからない。
だってあの人の目は、いつもと変わらず優しく笑っていたから。

それなのに。
ぼくはまたひとりになった。
またここにいる犬たちと過ごさなければならないのだろうか。
あの人がお店に迎えに来てくれないことまでは予想していなかった。
無条件に信じていたんだ。
またあの人の部屋に帰れるって。
そんなの当たり前だって。
どうして信じてしまったんだろう。何の根拠もないのに。
あんなに期待しないって決めていたのに。
前の人だって、いつもと変わらなかったじゃないか。
いつもと変わらなかったのに、帰ってこなかったじゃないか。
ぼくの心は嵐のように乱れた。

「いい子にできた?」

あの人はぼくにそう言った。
いい子ってなんだろう。
ぼくは前の人のことを思い出して甘い記憶に浸り、あの人を疑い、あの人を信じたことを後悔した。
これはいい子がすることなのだろうか。

お店から戻ったぼくは、今、いつものようにあの人の部屋にいる。
ぼくがお店にいたとき、あの人が何をしていたのかはわからない。
でもぼくは、あの人と一緒にいる。これが現実。

「おはよう」
「ごはん食べる?」
「お散歩行こう」
「ただいま」

ぼくとあの人の毎日が続く。
快適な部屋。あの人の笑顔。あの人のぬくもり。そして柑橘の匂い。
この香りはあの人のものであり、前の人のものでもある。
ぼくはあの人が好きなんだと思う。
でも、前の人のまるい手、ぶあつい膝、少し低い声、あの陽だまりの中で過ごした暖かい時間をぼくは忘れていない。
前の人とはきっともう会えない。
でもぼくの大切な大切な記憶なんだ。だれも侵すことのできない、ぼくだけの記憶。

おばあさん、ぼくは元気です。
あの人と一緒に暮らしています。時々不安もあるけれど、よくしてもらっています。
あなたとの時間はぼくの宝物です。
あなたがぼくを忘れてしまっていても、ぼくはずっと忘れません。
このさわやかで苦みのある、レモンの香りがある限り。



【あとがき】

このお話は、米津玄師さんのLemonを聞いているときに急に湧いてきたお話です。この曲はもう何度も聞いたことがありました。先日お風呂でラジオを聴いていた時にこの曲がかかり、なんだか急にこのお話が湧き出てしまい、今のうちに書き留めておこうと思ったものです。
湧いてきたものを書くという作業には、かなり苦労しました。
書くためにはある程度状況や「ぼくの気持ち」をロジカルに考えていく必要があり、単純に湧いただけでは書けないものだなぁとしみじみ。
米津さんはこの話とはかけ離れた想いでLemonを書いたと思うので、単にインスパイアされただけの別物語なのですが、何か感じていただけたらうれしいです。
そして、人間の事情で生活が一変してしまう動物や植物がなくならないように、切に願っています。

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