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『家康、江戸を建てる』①流れを変える

GW最終日になんとか形になったので良かったら読んでみてください。

俺ここまで文章がヘタで面白いのを書くってなかなか見たことがないんだ。

「岡田斗司夫」解説『家康、江戸を建てる』

関八州かんはっしゅうをやろう

「貴殿には関東八か国をそっくりさしあげよう。
相模さがみ武蔵むさし上野こうずけ下野しもつけ上総かずさ下総しもうさ安房あわ常陸ひたち天下一の広大な土地じゃ。お受けなされい」

1590年。
秀吉からそんな提案を受けた49歳の家康が関東へ入府したのは8月。
その頃の江戸城のまわりはまだ海だった。

江戸期・明治期の日比谷付近

ここを、わしは大坂おおさかにしたい

そんな家康のあり得ない夢に対し、主君思いの本多ほんだ忠勝だたかつが言った。

あの山と、ほれ、あの山をきりくずして埋め立てれば地ならしは成る

しかし、埋立てが始まるのは16年後の1606年の第一次天下普請を待つ。
今は別の事業を行う必要があった。

本田に続き、家臣の土井どい利勝としかつが口を挟んだ。

この地は容易に固まらぬでしょう。北のほうから、何本の川がこちらへ流れてきておりますか。雨がふるたび大洪水じゃ

家康はすでにこの問題の対応者を決めていた。

伊奈いな忠次ただつぐ、まかり出よ
そのほうに命じるのは、江戸の街そのものを築く基礎作りじゃ」

家康から依頼されたのは当時41歳の伊奈いな忠次ただつぐだった。

伊奈忠次

彼がこのお話の一人目の主人公である。

それから2年。
忠次ただつぐは関東平野をくまなく歩き、一つの結論にたどり着いた。

やはり利根川じゃな

これが、「利根川東遷事業」と語られる一大河川工事の始まりだった。

「利根川こそが、江戸の地を水びたしにしている元凶なのだ
流量が多く、江戸湊えどみなと(東京湾)にそそぐ河口が広すぎるからだ」

忠次ただつぐはそう結論付けた。
当時の利根川は現在とは異なり、東京湾へ流れ込んでいた。

第22回里川文化塾 関宿で学ぶ、江戸時代の舟運と産業

あいの川」の廃川はいせん工事

伊奈が最初に完成させた工事は1594年の「あいの川の廃川はいせん工事」だった。

しかし、この工事に忠次ただつぐの息子の忠政ただまさは疑義を呈した。

あいの川を締め切ったところで、結局水はすべて江戸湊にそそぐのです。
河口の被害は変わりませぬ。江戸の民には、何の利益もなかったのでは?

確かにその通りであった。
しかし、忠次にとってこの工事は土木技術のテストだった。

これから実施される利根川・渡良瀬川の合流工事の。
そして、その最終目標は利根川を鹿島灘への流れに変えることだった。

忠次ただつぐから息子達へ

ここから小説では断片的にしか語られていないが以下の様な事が起こる。

1598年秀吉死去
1600年関ヶ原の戦い。
1600年伊奈忠次代官頭になる。
1603年江戸幕府開府
1610年伊奈忠次61歳で死去。事業は息子の忠政(26)に引き継がれる。
1614年大坂冬の陣
1615年大坂夏の陣
1616年家康75歳で死去。
1618年伊奈忠政34歳で死去。事業は弟の忠治ただはる(27)へ引き継がれる。

本の題名の家康はオーダーこそすれ、このプロジェクトの完了を見ることはなかったのだ。

治水から利水へ

1621年。
最初の登場人物が皆いなくなった世でお話は再び動き出す。

利根川・渡良瀬川の合流工事の完成は元和七年(一六二一)、あの会の川の締め切りから二七年も経ってからだった。

その知らせを聞いた伊奈は「忠次」でも、その息子の「忠政」でもなく。
忠政の弟にあたる、伊奈忠治ただはるであった。

ここで主人公は忠次ただつぐから息子の忠治ただはるへと代わる。

伊奈忠治

道半みちなかばで11年前にこの世を去った忠次の意思を継ぎ忠治はみごとにこの大事業を成功させた。

家康の関東入府からすでに30年。戦国時代は江戸時代となっていた。
いくら田をふやしても人口は一気に増えるわけではない。

「人口減少」時代への対処は江戸に学ぶといい

重い米を運ぶのも陸路より水路のほうが楽で早かった。生産よりも流通。
江戸は水路ネットワークを張りめぐらせる事に重点が代わっていった。

つまり、相変わらず利根川は東京湾へ流れ込んでいた。

こういう時代なのである。利根川をもういちど東へ曲げよう、鹿島灘へそそがせようなどという巨大開発は、もはや人々の指示を得られるはずもなし。

勘定奉行と代官頭を引き継いだ忠治は父から思い描いていた伊奈家の目標を心にしまい込んでいた。

利根川は、もう終わった。
もはや手を加える必要はない。そういう忠治の存念は、けっして怠惰や偸安から出たものではない。時代に即した合理的な判断にほかならなかった。

しかし、その炎は消えたわけではなかった。

利根川東遷最後の一手

1642年51歳の時に忠治は代官頭一本に仕事を絞る事が許された。

そして、念願の利根川東遷事業の最後の一手を打つ事にした。
1645年。部下であり息子の伊奈忠克ただかつを呼び寄せた。

どうやら機は熟したようじゃ。そろそろやろうか、半左衛門(忠克)
こいつあ大工事になるぞ。五年はかかろう

そしてその工事の完了はそれから9年の歳月を必要とした。

1954年。
疎通のその日、忠治ただはるの姿はそこにはなかった。
疎通の前年、忠治ただはるは62歳でこの世を去っていた。

そして、最後に主人公は息子の伊奈忠克ただかつに代わる。

伊奈忠次から孫の忠克の時代までいって、やっと利根川から常盤川への水路が完成して、上流の利根川の堰をポンッと切って常盤川の方へ水がグっと流れてくる第一部のクライマックスシーンめちゃくちゃ萌えるよ。

水が混ざりあったら、川の下の方が粘土になってて、赤い水が上がってくるんだ。赤い水がどんどん増えてきて。

これは駄目だやっぱり堰が切れる、合流が早すぎだ!

と思ったら、白いあぶくがブワーっと上がってきて水がみるみる青く戻って常磐川の方へと流れいく。

50年かかって遂に利根川の治水が完成したっていうシーンがあるんだけどさ。

「岡田斗司夫」解説『家康、江戸を建てる』6:05開始

家康からの依頼から64年。
伊奈家三代四人の男たちの念願はここに完了する。
利根川は最終目標の鹿島灘への流れ込むルートをたどるようになった。

伊奈忠次 関東の水を治めて 泰平の世を築く

感想

岡田斗司夫さんの解説を聞いてむちゃくちゃおもしろそうだと思い、最初にこのDVDをみました。

このDVDではこのお話はあまりメインどころに置かれていませんでした。

ゴールデンウィーク前に本を読み出したのですが、たしかに面白い。
GW中により深くこの話を知ろうと色々調べ出しました。

読んだ方が、楽しんでいただければ幸いです。

(参考)
https://youtu.be/Q9japwzKOY0
https://www.youtube.com/watch?v=XdZOMAiXP_M

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