ゆたかさって何だろう

医療従事者になることが夢だった。
そうしながら、作家になることが夢だった。

気付いたらそれは全て夢は夢のまま
土の中に埋まる思い出宝箱として、葬り去られていた。

#ゆたかさってなんだろう
このタグを見て、投稿する気は毛頭なかった。
"人それぞれ"その言葉のメモを貼り付け、
記憶の片隅にすぐさま片付けた。

毎日毎日家の中で自堕落に過ごす日々。
同居している家族とは毎日顔を合わせるから、わざわざ家族のところへ顔を出す必要はない。
大切にしている一握りの友人も
会いに行く足(車という田舎では必要不可欠な交通手段)も生憎持ち合わせてないから誘うことなんてできるはずもなく。
毎日布団からの絶好の景色、
天井とスマホの画面に釘付けの毎日。

それでもたまには外に出る。
祖母の受診の運転手として。
祖母は私が毎日家に籠もっていることを言わなくても知っているから、いいようにこき使う。
「加藤登紀子のCDが欲しい」
祖母は運転ができないから、運転手は祖母が満足いくまで付き合うのだ。

レンタル兼販売をしている書店に着くと、
私は書籍に目が移る。
「最近楽しく読書なんかしてないな」
あまり乗り気ではないけど
今右肩上がりに売れているらしきエッセイ本をもち、レジで支払う。

帰宅後、薄暗い部屋の中で1人、ページをめくる。
声を出して笑って笑って、少し泣いた。
久しぶりに心の中に太陽が顔を出していた。

次の日、今度は違う人のエッセイを買った。
心の中の太陽は未だに雲をかぶらない。

また次の日、エッセイ本を2冊買った。
太陽は自ら水分補給を促していた。

そんな時、このエッセイ本の朗読をしている動画を見つけた。
朗読部分は失恋に関する後悔と、今ならこんなことをしてあげたい。
そんな思いが書かれた短く、儚い想い。
気付いたら涙が私を覆い尽くして、口周りは切ない塩の味がした。
それでも、心の中は雨模様にはならないのだ。
太陽は枯れずに優しく微笑みかけてくる。

 ふと、 #ゆたかさって何だろう  というハッシュタグを思い出した。
 私はゆたかだ。
今まで冬枯れた世界に1人いたような気分で
"人それぞれ"と一言で片付けてしまったように
一つのことを白か黒で分別していた。
もっと簡単な単語で表すなら斜に構えていた。

でも、切なくでギュッとさせるあの本と、あの朗読。
その時の太陽が射した暖かさが私の斜に構えた心意気をほんの少し溶かしてくれた。


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