エルデの獣を倒した話

つい先日日本ゲーム大賞2022が発表され、大賞にエルデンリングが選ばれた。私もいち褪せ人として誉れを感じたところであったが、実はエンディングまであと少しというところまでしかゲームを進めていなかった。そのため他のプレイヤーと同じように「やっぱり今年はこれ!納得だよな」なんてことを言える立場かというと微妙なところで、「納得だった」と過去形で語れるところにはいないという謎の気後れがあった。
じゃあまあ大賞も受賞しましたし?私も改めてエルデの王、目指しますか。と思って狭間の地に降り立ったわけである。

仕事が終わって家に帰って、洗濯して、夕飯を食べるまでの間。それが私に許された平日のプレイ時間なのだが、唐突に現れたラダゴンとかいう男に殺されることは数え切れず。悔しくも遺灰を解禁してみると流石にヘイトが散るおかげで攻略しやすく、表題にあるエルデの獣に相見える運びとなった。
獣の姿を拝んでからも当然のごとく命を散らされたのだが、そこは遺灰の力もあり、なんだかんだで念願のエンディングまでたどり着くことができたわけである。感無量である。
達成感とともに、最後の選択肢を選び、所謂ラニエンドを選択した。
フロムゲー歴は浅いのだが、エンディングを分岐させることができるのは、SEKIROにもあったなと思いながら最後のエンディングムービーを鑑賞した。
「……ふ~ん、ん~?ほ~ん」
100時間以上プレイしたゲームの感想である。
エルデンリングというゲームはその自由度の高さゆえに必死こいてストーリーの核を追っていなければ迷子になる。ただプレイしながらいちいちメモったり考察したりするのは非常に難しい。

エルデンリングは世界史である。リアルの世界史のようにカタカナの人名があっちこっちで活躍して、やれデミゴッドだの戦争だの言われるわけである。私は小学生の頃、ハリー・ポッターが好きで、エクスペクトパトローナム!とかルーモス!とか母親に呪文をかけていたら、「あらあら、カタカナ語が得意やねー」と言われたことを真に受けて高校で世界史を選択した挙げ句、別にカタカナが得意だったわけでもなかったことに気づいたバカなのだが、歳を重ねるごとに、より人名はキツイ。ポケモンは覚えられるのにね。
そんな私はなんとなく雰囲気でプレイしていたので、(それでも楽しめる)なんで黄金樹燃やした中にラダゴンがいて、そいつを倒したら獣になって、ラストは崩れかけのマリカなの?となる。先に述べた唐突なラダゴンである。
ちゃんとメインストーリーを負いながらプレイしていた人々には理解力なさすぎだろと言われるのかと怯えてしまうが、とりあえずマリカとラダゴンって夫婦なんじゃないのか?と思って、一度はクリアしたし考察されているネット記事を今度読んで見ることにして。

ゲームでも映画でも、私はプレイしたり見たりするのは好きだが、細かな設定にまで考察を張り巡らせることはほとんどないと思う。だから、作品に「触れた」というところで完結してしまっていると感じることがある。ウテナを見終わったときにも思った。雰囲気で楽しむことができるというのはある意味長所であるかもしれないが、作品の本質を飲み干そうと試みることができる人たちをある意味尊敬している。「考察厨」というスラングがあることは知っているし、深読みしすぎることは結局製作者すら意図しない領域に昇ってしまうこともあるのだと思うけども、それも含めて自分にはできない楽しみ方だと思う。
ただ私の場合は、考察を見て本質に触れた気になってしまうし、自分の作品への関わり方は浅かったのではないかと考えてしまうこともある。それはコンテンツの楽しみ方としては不健全だと思う。大事なのはバランスである。狭間の地でも。


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