禁煙

2018年の秋のことである。
さらなる煙草の増税を翌日に控え、私はいよいよ時が来たのだなと思っていた。それまで禁煙というものについて本気で考えたことはなく、なんならその時ですら、いよいよなんて思ってみたものの、それほど強い決心をしていたわけではなかった。しかしきっとこれが最後の増税というわけでもなかろう。数年、いやもしかすると次の年にもまた値段が上がると思うとそれだけで暗澹たる思いになった。そもそも私は自分自身が吸う煙草の匂いには特に何も思わなかったが、煙草を吸った後に自分自身についた残り香が嫌いだった。少し酸味の効いたような匂いが自分でもわかっていたし、他人にそれを嗅がれて煙たがられることにはある種の怯えがあった。それは加熱式に変えてみても消えなかった。決心という強い思いこそなかったのは確かだけれど、「いつか煙草をやめよう」という漠然とした思いが増税の前日に発露したということである。

さて、漠然とした思いで始めた禁煙だったが、先達が示している通り、いよいよ次の日から、一週間が最も辛い期間となった。結論から言うと、最後の夜以来一本の煙草も吸っていないが、あれほど辛い期間は今思い返しても最初の一週間だけである。
私は禁煙外来に通うことも、市販の禁煙用品を使用することもなかったし、禁煙セラピー系の話を聞いたり書籍を読んだりすることもしなかったので、実際にそれらがどれほど効果のあるものなのかを知らない。
私が禁煙に成功したのは、気持ちである。
というと時代遅れな昔の体育会系のようであるが、そうである。
ではどのように気持ちを保っていたのか。大きく3つある。

  1. 冷静によく考えてみてほしい、”煙”だぞ?本当に美味いか?

  2. ここまでのお前は頑張れたのに、現在のお前は頑張れないのか。

  3. 俺はいいけど未来のお前がなんていうかな。

経験者から言わせると、1は離脱症状がピークの時には効果をなさない。本当に美味いことを知っている(気がする)からである。ただ、他のメンタルコントロール系の分野で言われているように、例えば集中状態や怒りの感情には時間制限があって、それは常に継続できるものではない。同じように吸いたい欲もずっと続くものではない。1つの波を確実に超えることが次に繋がる。一対一を70回と捉えた宮本武蔵のように。当時はそういうふうに捉えていた。あとは自分自身の罪悪感に訴えるようにしながら日々を過ごした。

今でも少し肌寒い季節になると、こんなときに外で吸う煙草が抜群に美味いものなのだろうと、数年連れ添った大切な相棒を失ったような気になるのは事実である。しかしもう、美味いのだろうとは思うが、吸いたいという欲に結びつかない。時間というものは残酷である。別れの記憶は消えないが、感情は薄まっていく。12歳の頃のような友人はもう作れないとわかっているが、だからといって感傷的になりすぎることもないように。

結局のところ成功した人間はなんとでも言えるのだが、自分自身の気持ちは大切である。なんとなく禁煙を始めてはみたが最後にはそう思った。しかし、どうせ強い思いで煙草を吸い始めた人間なんているまい。辞める時になって気持ちが大切というのは皮肉が効いているというものだ。

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