禅語を味わう...020:秋天萬里浄し
秋天萬里浄
秋のお彼岸も過ぎ、はや9月も終わりとなりまし た。
今年は、日本中が異常なほどの酷暑に見舞われましたが、「暑さ寒さも彼岸まで」の言葉の通り、朝夕、めっきりと気温が下がり、虫の声が本格的な秋の訪れを感じさせてくれるこの 頃でございます。
さて、今回の禅語は、唐の詩人 王維の詩から「秋天萬里浄し」です。
廣大な中国の大地...詩人、王維の目の前には、日本に住む私たちには想像もできないようなスケールの光景が、一面に広がっていたことでしょう。そして、その廣大な大地の果てよりも、もっと遠くまで、どこまでも青く、高く、秋の青空は抜けるよ うな透明さを湛えています。
「萬里浄し」ですから、百里、千里、万里...見わたすかぎりの遙かかなた、地平線のかなたまで、紺碧の青空の下、人っ子一人いない清浄な世界。生き物の気配すら感じられない世界。文字通り塵一つないほどに澄みきった世界...
美しいのだけれども、思わず身震いするような凄絶な景色です。こうした、人間の存在をどこまでもちっぽけなものにしてしまうような、圧倒的に雄大な景色は、日本にいては想像することができません。
という名句が『唐詩選』にありますが、澄みきった秋晴れの青空の下、誰一人通るもののない、廣大な平野の拡がりが、どこまでも、どこまでも続いていく...雄大ではあっても、どこか寂しさが迫ってきます。
しかしこれは、普通に独りぼっちで「寂しい」などというものではありません。人がいない どころか、本当に何にもない世界、自分自身すらどこかに消え去っていってしまうような世界なのです。
「秋天萬里浄し」...見わたすかぎり一片の雲さえも浮かんでいず、カラッと抜けきって吸い込まれていってしまうような青空と、旅する人はおろか、生命の営みの気配もなく、埃の舞い上がる姿すら眼に入らないような大地...無限に拡がる剥き出しの天地の真ん中にあっては、私たちはただただ圧倒され、 もはや自分の存在などとうに消し飛んでしまって、ただ、ガランとした天地が寥寥とあるばかりです。
自分の存在すら消し飛んだ、ただただ澄みきった清浄な世界...
道元禅師ならば、ここを「心身脱落」とでもよぶでしょか。心も身体も、自分がまるごと全体抜け落ちてしまい、ただ果てしもない廣大な天地だけが寥寥としている...ここを禅では「無」と言い「空」と言い、あるいは「本来無一物」と言い表します。
あまりにも大きな世界の姿に直面す るとき、私たちは自分たちの存在が、限りなく0に近いという ことを思い知らされます。
吸い込まれるような深みを湛える青空を見つめるとき、宇宙の果ての果てまで思いを馳せるとき、 私たちの存在は、空っぽの虚無のただ中にぽつんと浮かんでいる、限りなく0に近いものです。
泣いたり笑ったり、怒ったり悲しんだり、つまらないことで争い、些細なことにくよくよする...私たちの日常、私たちの生活、私たちの生きる世界は、何とちっぽけなものであるのか...
もちろん、ここが私たちの世界であるからには、ここを離れて私たちの存在はありませんし、私たちにとっては、他にかけがえのない一つだけの世界です。だから、大きい、小さい...などといったことでは決して計ることができません。しかし、人間が生きている時間というものは、儚い。どこからかこの世界にやってきて、必ずどこかへと去って行く。
私たちは、一体どこか ら来て、どこに去って行くのか...
果てもなく拡がり、澄みきった景色を 目の当たりにするとき、私たちはそん な単純で、そんな基本的なことすら知りようにない存在なのだと実感させら れるのです。
少し飛躍になるのですが、ベルナルド・ベルトルッチ(1941-2018)監督の『シェルタリング・スカイ』(1990)という凄絶な映画作品があります。サハラ砂漠の、どこまでも広がる青空の下、オレンジ色の砂漠がどこまでもどこまでも広がる中で、二人の主人公が布を一枚だけ敷いて横たわるシーンがありますが、背筋が凍るような孤独を描いて余すところがない、映画史に残るカットだと思います。もちろん、王維が観ていた中国の大地は、荒涼たる砂漠ではなく、黄金色のコウリャンがどこまでも続く大地であったのでしょうけれど...
と、哲学者のパスカルは書いています。
私たちはどこからやってきて、どこに行くのか?
果てしなくひろがる宇宙空間は、ぽっかりと空いた奈落のように闇いままです。私たちの問いかけに対して、決して答えることなく、 永遠の沈黙のうちに沈んでいます。パスカルが震え上がったのも、当然でしょう。 しかし、詩人 王維は違います。
「秋天萬里浄し」の後に、こんな風に続けています。
日没となり、あたりの景色は急速に夕闇の中に沈んでいきます。秋の夕暮れ、日の落ちるのはとても早いのです。つい今し方まで、夕焼けの赤い光に照らされてい た風景は、瞬く間に青黒い闇の中に溶け込んで、微かに輪郭を残すだけになっています。そこにただ、変わることなく「澄江」青く澄み切った大河の水が滔々と流れる、その音だけが聞こえている...
夕闇の中にただ、大河の流れの音だけが響き渡る...ここを「空し」と言いあらわすとき、そこには儚く流れゆくものを、ことさらにいとおしみ、無常を詠嘆するような調べはありません。
あらゆるものの姿が闇に溶け込むような暗がりの中にあって、揚子江は、滔々と、何事もなかったかのように流れているのです。
私たちの命は短く儚い...だから、絶えず流れゆく大河の水音は非情ですらあります。しかし、「秋天萬里浄し」...何一つない、カラッと抜けた青天のもとに立ちながら、自分自身を捨て切って「浄し」と言い切るように、「日暮れて九江空し」と言う時、私たちはやはり同じように、絶え間なく、時として 非情に流れゆく時の流れに向って、躊躇うことなくスッパリ「空し」と言い切ることができなくてはいけません。
私たちの日常の思い煩いのほとんどは、スッと抜けた「本来無一物」の青天井を前にしたとき、くよくよ思い悩むちっぽけな「自分」と一緒に、カラッとどこかに吹き飛んでしまうのです。だから、晴れやかな思いで 潔 く「浄し」。
そして、無常な時の流れの中にいながら、同じように潔く「空し」と言い切ることができるためには、まず「清い」ということとしっかりと向き合うことです。「無常」を離れた「清い」はなく、「空し」を抜きにして「清浄」を得ることなどできな む な いのですから。
修行の世界は、まず「捨てる」ことから始まります。そして「浄し」が本当にわかれば、「空し」もちゃんとわかる。「清」も「浄」も、「空」も「無」も、一つのこと。すべては、まず自分を捨ててしまうところから始まるのです。 儚さや虚しさを感じさせる「無常」のなかにこそ、迷いも苦しみも、執着や妄想も、綺麗に洗い流してくれる清浄な流れがある。
真っ赤に色づき始めた紅葉と、美しい秋 の青空を見上げながら、「秋天萬里浄し」と、心も身体もまるごと全部、さっぱりと清めてみたいものです。
写真:工藤 憲二 氏
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