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禅語を味わう...023:無事是れ貴人...

無事是貴人ぶじこれきにん


令和5年、いよいよ暮れも押し詰まって参りました。
年の終わりには、禅寺も大掃除をして、普段以上にお寺を綺麗にして、お正月の飾りを準備の上で、新しい年をお迎えするのですが、悲喜こもごも、一年間の迷いの塵を振り払うことはもちろんですが、それだけでは十分とは言えません。
心機一転、身も心も新しい年に合わせていくためには、今年一年の心のわだかまりをしっかりと見つめて、こだわりや執着に、きちんと一通りのけじめをつけておく必要があります。

一年は短いようで長いです。日々の暮らしが、どんどん過ぎ去って行ってしまう一方で、心の奥底には、知らず知らずのうちに、さまざまな思いが積もっていきます。一年を振り返って、できたこと、できなかったこと、良かったこと、悪かったこと、喜び、悲しみ、希望と不安...解決できないことばかりだけれど、心の底に沈殿ちんでんしているおりのような思いの数々を、無かったことにしてしまうのではなく、ちゃんと自分自身でそれを認め、たとえ手に負えないようなものであっても、そうした重荷があるにもかかわらず、よし、新しい年に向かって、一歩を踏み出すぞ、と勇気をふるい起こすことができればよいですね。

人間であれば、誰もが人生を通じて、いくつもの解決不可能、あるいは解決困難なものを抱えて生きています。これは、世間的にいう人生の成功・失敗にかかわらず、そうなのです。
忘れよう、忘れよう、無かったことにしよう、とどれほど努めてもそうは行かないことに対しては、むしろ、ああ、自分はこんなことで...と受け入れてしまって、だけれど「それがどうした!」と自分を𠮟咤しったする方が良かったりもします。
ともあれ、年の瀬は、一年を振り返り、新しい年に向かっての教訓を思い起こすのに良い時です。失敗して思い出したくないようなこと、苦手なこと、嫌なことですら、心の用い方一つで、気付きと学びを得ることができる宝の山になることを忘れないようにしたいのです。

さて、今年令和5年の一番の出来事は...
人それだと思いますが、わたしにとって、真っ先に浮かぶことは、コロナが明けたことです。明けたとはいっても、解決したなどということでは全くありませんが、あるものはあるものとして、めいめいがめいめいの立場や事情に応じて引き受けて、心の針の向き方を変えて前進する、ということですね。社会全体が、そういうコンセンサスのもとに新し一歩を踏み出した、ということです。
ということで、今年一年を振り返って、最後の禅語に「無事是ぶじこ貴人きにん」を味わいたいと思います。

「無事是れ貴人」という言葉は、年の暮れになると、お茶の席でよく見かける掛け物の禅語です。この言葉、もともとの出典は、禅宗の一グループである「臨済宗」を開いた開祖・臨済義玄りんざいぎげん禅師( ~867年)の言葉として有名です。
臨済禅師といえば、「臨済の喝」という言葉があるように、カーッ! と修行者たちに雷のような「喝」を浴びせかける苛烈かれつな指導を得意とした唐代の禅僧です。
言葉よりも手が早い、といわれる荒っぽい修行で有名な禅の世界においても、「るも三十棒さんじゅうぼう、言い得ざるも三十棒」と、問いかけに答えることが出来てもできなくても、手にした棒で滅多打めったうちにするという、これまた激烈な指導でその名をせた徳山宣鑑とくさんせんかん禅師(782~865年)と並んで、「臨済の喝、徳山の棒」と讃えられる傑僧けっそう、禅僧の中の禅僧です。
面白いのは、それほどまでに激しく厳しい指導を身上とした禅僧が、もっとも大切にした言葉の一つがこの「無事是れ貴人」あるいは「無事」だったことです。拳骨けんこつを握り、目をいからせ、大声で人を怒鳴りつけておいて無事も何もないだろう...そう思われるかもしれませんが、そもそも臨済禅師が言う「無事」とはどのようなことなのでしょうか?

無事是ぶじこ貴人きにん造作ぞうさすることなかれ。だ是れ平常へいじょうなれ。汝、外に向って傍家ぼうけ求過ぐかして脚手きゃくしゅもとめんとほっす。あやまおわれり。だ仏を求めんとほっするも、仏は是れ名句みょうくなり...

臨済録りんざいろく示衆じしゅう

無事であるのがとうとい人だということなのだ。あれこれ余計なことをしてはいかん。平常と同じであれば良いのだ。お前さんは他所よそばかり見て、他人のところに何か良いものはないかと手掛かりを求めておるが、大間違いじゃ。仏を求めるというが、仏など、ただの名前でしかないのだ...

「無事」と聞いて、わたしたちの頭にまず思い浮かぶのは、「何事も無く平穏順調に物事が進んで行くこと」だと思います。
「安全・安心・安定・便利・豊か」が、かなりの程度実現されている現代の日本に住んでいると、細かく言えばいろいろなことがありますが、何はともあれ、生きていく上でのことは、そこそこ「無事」に進んでいると感じるはずです。しかし、もう少し踏み込んで考えるならば、
人は自分のことをどう思っているだろうか? 隣の家とくらべて、自分のところは負けないぐらい豊かだろうか? あいつには負けたくない、こいつよりは自分の方が優れている...からはじまり、この生活の、今のままで良いだろうか? あれをしなければならないのじゃないか? これをしておかなければまずいんじゃないか? 
高度な情報化社会にすんでいるわたしたちは、毎日どころか時時刻々、「お得情報」に翻弄ほんろうされ、詐欺さぎまがいのものにであったり、どうして良いか決めるのに、情報があることによってかえって迷ってしまい、わからなくなって途方に暮れてしまったり、これが危ない、あれが危険だ、という「注意喚起ちゅういかんき」に不安を感じて、夜も眠れなくなってしまったり...
上の言葉の中で臨済禅師が言っていることは、「外に向かってあれこれ求めるな」ということに尽きています。そうすると、「安全・安心・安定・便利・豊か」という意味ではかなりの部分「無事」を実現できているかのように思えるわたしたちが、実は、自分たち一人一人の「心の置きよう」のために、右往左往うおうさおうし、心の安まることもなく、フラフラ揺れ動き、そのせいでデマに流されたり、詐欺に引っ掛かったり...まったく「無事」ではない有り様だとわかります。臨済禅師の言う「無事」とは、要するに「心の問題」であり、「心における無事」なのです。
では、どうすればよいのか?
臨済禅師は、あれこれ外に向かって求めることが大間違いだ、と言っています。

如今いまの学者の得ざるは病甚やまいなんところにか在る。病は不自信ふじしんの処に在り。汝自信不及じしんふぎゅうならば、即便すなわ忙忙地ぼうぼうじに一切の境にしたがって転じ、他の万境ばんきょう回換えかんせられて、自由を得ず...

『臨済録』示衆一

今時の修行者たちの修行が駄目なのは、どこが悪いのか? それは自分を信じることができないところにあるのだ。お前さんがもし、自分を信じることが十分でないなら、周囲に振り回されてあたふたして、あらゆるものに引きずり回されて自由でいることができん...

臨済禅師は「人惑にんわく」を受けるな、と教えています。「人惑」というのは、人の言うことにまどわされることを指します。
欲をかいている時、自分に都合良く虫の良いことを考えている時、不安を感じている時、意気消沈いきしょうちんしている時、わたしたちはどうしても「正しい情報」「お得な情報」を求めて右往左往します。しかし、欲をかいている時、自分に都合良く虫の良いことを考えている時、不安を感じている時、意気消沈している時には、真っ当で的確な判断などできようはずもありません。その時その時の心の不安定さ、弱さに引きずられて、都合良くものごとを考えてしまいがちです。そういうときに陥るのが「人惑」です。
わたしたちの心の準備ができていない時には、「正しい」情報ですら、「人惑」になります。正しい情報は、時にはわたしたちにとって、とても厳しいものであることがあります。準備ができていないのに情報に飛びついて、結果的に自分の心の問題でうまく行かないような時、やはりわたしたちは情報に惑わされていることになります。これも「人惑」です。

「人惑」は、わたしたちが何かに「依存」しようとする時、起こります。「依存」しようとするとき、わたしたちは判断停止してしまいがちです。判断停止していたら、正しい知識ですら、適切に生かすことができません。
心がぐらぐらする時、その時こそ「人惑」を受けないように、「正しい情報」なるものを求めて手当たり次第に右往左往するのでなく、まず落ち着いて、よしっ、一つじっくりと引き受けてやろう、と心を引き締め、勇気を奮い起こすことが肝要かんようです。

さて、わたしたちが「無事」に生きることができるかどうか...
これはけっきょくは、わたしたち一人一人が、ちゃんと落ち着いてものごとを公平に、冷静に見ることができるかどうか、大変な時に都合が悪い情報に直面しても、ひるまず、迷わず、恐れず、はらえて向き合うことができるかどうかの問題です。臨済禅師が「無事」というのは、そういうところを言っているのです。
臨済禅師はまた、そういう、覚悟ができていて、落ち着いて、冷静に、公平・公正に物事を見ることができる人のことを「大丈夫児だいじょうぶじ」と呼んでいます。そして、この「大丈夫児」こそが「貴い」のだ、と言っているのです。「無事是れ貴人」とは、出自や身分、社会的地位や権力の有無ではなく、一人の人間としてしっかりとした心をもって生きている人のことにほかなりません。

コロナ禍の3年間が過ぎ、新しい年を迎え、自分の一年をじっくりと振り返って、来年こそ「無事是れ貴人」を目指してがんばる、と心に誓うならば、臨済禅師は大いに喜んで、でも、相変わらず拳骨けんこつを握り締め、目をいからせて、カーッ! とはげましの一喝をくださるのではないか...そんな風に思うのです。

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