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【筑後 大塚氏の研究08】犬塚と大塚がややこしい!


 肥前地域から筑後にかけて、「大塚」という氏族が分布しているのですが、実はちょうどおなじエリアに「犬塚」という氏族も分布しており、非常にややこしいことが起きています。

 ”おおつか”と”いぬつか(いんつか)”ですから、言葉や音の上ではぜんぜん違うのですが、どうしても文字面が似ているので、特に活字などでの誤植や、誤記が多いのです。

 実はこの取り違え、公的な書物でもたくさん生じていて、各市町村誌や郡誌などでもちょこちょこ入れ替わりがあります。

 私などは、逐一それをチェックしながら調査を進めているので、疲れてしまうほど(笑)

 さらに、私こと「大塚」のルーツは筑後三潴郡で、氏族のルーツは肥前三根郡です。犬塚氏の氏族のルーツも筑後三潴郡で、拠点が肥前三根郡なので、ほとんど場所が「かぶっている」ため、校訂者も犬塚と大塚が入れ替わっていても「気づかない」ことがありえるのです。

 というわけで、今日はそこらへんの話を。


 少弐系大塚氏は、源流こそ太宰府ですが、少弐氏が肥前佐賀方面へどんどん逃げてきてからの分流ですから、大塚氏が誕生したのは、室町時代の嘉吉頃、「三根郡大塚村」においてとされています。

 そこから隠岐らが三潴郡に駐留したのが戦国時代の天正期というわけ。

 犬塚氏は、筑後宇都宮氏族で蒲池氏(後蒲池)の庶流です。三潴郡犬塚村が本拠で、室町時代に蒲池から独立して少弐の家臣となり、神崎郡などを拠点としました。また元亀年間には龍造寺の家臣となった犬塚家広が三根郡に移封されています。

 ね?ややこしいでしょう。


 氏族としては「蒲池」「今村」「犬塚」「西牟田」「城島」あたりが同族ということになります。


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 少弐家臣としては「大塚」も「犬塚」もいます。その流れで言えば、龍造寺氏家臣にも「大塚」と「犬塚」がいます。さらに当然、鍋島氏家臣にも「犬塚」「大塚」の両方がいます。

 もっと言えば神代氏家臣にも「大塚」と「犬塚」がいるようなので、もはやグループにおける判別はつきません。


 有名どころで言えば、龍造寺家臣の「犬塚伯耆守」がけっこうな頻度で「大塚隠岐守」と誤植、誤記されていることが多いです。これは肥前崎村城主の犬塚家広のことではないかと思います。


 ところで、今回の調査、研究のテーマになっている「大塚隠岐」「大塚隠岐守」は、どうなっているのでしょうか?実は「犬塚隠岐守」という表記になっているものがあるのです。

■「歴代鎮西志」 大塚隠岐  (江戸中期成立・犬塚盛純 著)

■「北肥戦誌」 大塚隠岐守 (正徳年間【1711~1715 年】成立・馬渡俊継 著)

■「直茂公譜」 大塚隠岐守 (享保年間成立【1716∼1735】)

■「神代家伝記」 犬塚隠岐守 (享保年間成立 著者は神官)

という具合。


 「神代家伝記」だけが、土生島の戦いの時に神代長良を逃したのは「犬塚隠岐守」になっているのですが、面白いことに別の箇所では、

『大隠岐』

という表記があるのです。なのでおそらく、隠岐は「大塚隠岐」で間違いないと思います。

 この略の仕方は戦国時代特有のもので、リアルタイムの署名などではよく使われる表現であり、「苗字を1字」「通称を1字」と略されることなどが多いです。(木村拓哉がキムタクになるような感じです)

 その箇所を見てみましょう。

『五月廿七日 直茂御判

杠清右

江原平右

神太郎左

大隠岐

中野彦右

福五郎右

神源右

以上』

です。これは鍋島直茂が各武将に宛てた手紙の末尾なのですが、ここに「大塚隠岐」がいるらしいことがわかります。

 問題は、これがいつなのか、ということ。5月27日はわかるのですが、年が不明です。

 また、この手紙の本文がかなりややこしいので、私も現時点では頭をひねっているところ。

 どうもざっくり言えば、宛名の7人は、神代長良の下を離れているかのようにも読めます。なんだか別の土地にいるらしいのです。


 この段階でわかったのは、土生島の戦いで「大塚隠岐はやはり死んでいなかった」ということです。その後、彼の人生に何があったというのでしょうか?

 おそらく、大塚隠岐は神代長良のもとを離れて、物理的にも違う場所にいたと推測されます。

 それが、「古賀伊豆とともに移動した八丁牟田/絵下古賀」であったとすれば、「戻ってこい」という命令が出たこととも話が合致しそうです。

 この謎解きは、かなり興味深いですね。







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