見出し画像

【筑後 大塚氏の研究07】隠岐屋敷の謎と「抱き茗荷」


 戦国時代の天正年間に、現在の三潴郡八町牟田と絵下古賀にやってきたという肥前龍造寺家臣の「古賀伊豆」と「隠岐」ですが、彼らが定着した場所というのがどこになるのか、推定してゆきます。


 江戸時代に書かれた「寛延記」によると「古賀屋敷」が八町牟田にはあったそうですが、現在の小字としての古賀屋敷は、未確認です。

 この「屋敷」という名称。もちろん一般的なお屋敷という意味ですが、小字などの地名になると「田畑と区別しての屋敷地=住宅地」というニュアンスを持つ場合があります。

 絵下古賀村の場合、これが非常に困惑する名称で、

「沖屋敷」

「西屋敷」

などの地名があります。

 私は個人的には「沖屋敷」とはすなわち「隠岐屋敷」であろうと推定しますが、もしかすると「奥屋敷(奥のほうの住宅地)」である可能性もないわけではありません。

 沖とは海の奥の方を「沖」と呼ぶように、「奥=おき」という用法も多いからです。

 「西屋敷」もなんとも言えない表現です。西のほうの屋敷地という意味もありますし、「西氏の屋敷」とも考えられます。

 実際には、絵下古賀村の「沖屋敷」にも「西屋敷」にも、ごく近くに大塚姓の方の住まいがあり、明治時代の土地台帳を見ても大塚氏がこの2エリアを所有していることが確認できます。(この2エリアのすべてを所有しているわけではありませんが)

 そうすると「沖屋敷」とは「大塚隠岐」の屋敷地の名残りであり、だから「大塚」さんの子孫がそこにいるのだ、と考えることも矛盾しません。


 西屋敷のほうは、「西氏=少弐系大塚氏」を意味する可能性もあります。実は「西屋敷」があるのに、「東」「北」「南」のついた「屋敷」という小字がないのです。

 もっと興味深いことに、西屋敷の東側にもわずかに屋敷地はありますが、その先は神社の領地で、「宮ノ前」などの小字になります。

https://jinja-sanpaicho.com/_jinjasi/jinjasi_area.php?vol=20&id=40520

に古い時代の地名がわかる記述があり、参考になります。


 八町牟田と絵下古賀の小字の一部を抽出してみましょう。

木本神社 三潴郡木佐木村大字八町牟田字中江
天満宮 三潴郡木佐木村大字八町牟田字宮内
木本社 三潴郡木佐木村大字八町牟田字木本
玉武社 三潴郡木佐木村大字八町牟田字東名前
道角社 三潴郡木佐木村大字八町牟田字野口屋敷


 八町牟田にある西元寺の初代は「木本右京ノ進」という龍造寺家臣の武士でしたが、木本神社や小字の木本があり、神仏習合で西元寺と合体していたことが伺えます。

 「野口屋敷」は「天満宮」を勧請した人物が「野口道覚」であることとつながります。

”承久三年(一二二一年)野口道覚が勧請した。寛延記によれば、天満大自在天神絵体を承久二年(一二二〇)野口道覚が筑前宰府より勧請したとある。”(大木町誌)

 野口道覚(どうかく)が道角と表記され「道角神社=野口屋敷」というわけです。矛盾なし。


高良玉垂命神社 三潴郡木佐木村大字絵下古賀字宮ノ前
素盞嗚社 三潴郡木佐木村大字絵下古賀字宮ノ脇
天満神社 三潴郡木佐木村大字絵下古賀字水泉寺
琴平神社 三潴郡木佐木村大字絵下古賀字道近

 残念ながら沖屋敷や西屋敷には神社などが残っておらず、宅地もしくは田畑になっています。


 西屋敷は、神社から見れば西の方角です。しかし、神社と西屋敷の間にもや敷地がいくつかあるので、たとえば「西屋敷」と「東屋敷」があっても不思議ではありません。

 神社を中心とすると、たしかに「西」ですが、西屋敷だけがあるのは不思議です。

 逆に「沖屋敷」から見ると「西屋敷」は東側にあります。もし隠岐がやってきた場所が中心だったとしたら、西屋敷の名称は方角ではないことになります。少弐系大塚氏や倉町氏の祖は、「西筑前守」の西氏ですから、これを残して「西屋敷」とした可能性もあるわけです。


 こうして考えると、大塚氏のルーツは

■ 神代氏と千布氏との姻戚を通じてつながった「本庄大塚の大塚氏(藤原氏)

の可能性と

■ 少弐子孫、「西氏系大塚氏(藤原氏)」

の可能性の2つがあり、その傍証が「隠岐」「西」などのことばである、と言えるわけですね。


 さて、この地の大塚氏の家紋は「抱き茗荷」です。これもまた絶妙で、「抱き杏葉」ではないところが面白いのです。

 肥前佐賀藩鍋島家は、大友氏から家紋を奪い「抱き杏葉」としましたが、デザイン上は「抱き杏葉」で間違いないのに、口伝では

「佐賀のお殿様の家紋は”だきみょうが”」

と伝わります。

 もし大塚氏がこの口伝を元にのちに家紋を再製したとすれば、そのデザインが「抱き茗荷」になってしまうことは十分にありえます。

 佐賀藩士の少弐系大塚氏は、少弐氏の「寄りかけ目結」あらため「四つ目」を使っているようですが、こちらのほうは古い家紋がちゃんと継承されている感じがします。

 大塚隠岐らは、傍流であれば、いつしか少弐系の名残りを失っている可能性もあるし、千布系なので「抱き茗荷」を優先したという可能性もあります。

 さらに興味深いことに、この地では「大塚・益田・吉田」の3氏が抱き茗荷を用いていることがわかっています。

 吉田氏はこれも益田とおなじく肥前高木の系統の可能性が高そうです。

https://www.hb.pei.jp/shiro/hizen/yoshida-jyo/


 大塚氏と益田氏、吉田氏は龍造寺一門である、鍋島傘下である、という仮説と矛盾しないと思います。


 ただ、このあたりは、こんなふうに「状況証拠」がたくさんあるものの、すっきりとはいきませんね。


(つづく)


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?