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【筑後 大塚氏の研究05】 絵下古賀・八町牟田の大塚氏のルーツ


 九州新幹線によって、筑後方面のアクセスはたいへん便利になりましたが、もともと平行して西鉄が走っており、私のルーツになる絵下古賀村は、今の八丁牟田駅(八町牟田)に隣接するエリア、ということになります。

 この地域、実は大木町の庁舎などがある中心地域でもありますが、古い歴史があります。戦国時代以前からの要所でもあったのですが、一般的には関ヶ原の戦いにおける「九州場外乱闘」である「江上・八院合戦」があった場所のすぐ近くといったほうがわかりやすいかもしれません。

 鍋島氏も柳川の立花氏も石田三成方についていたものの、三成たちが負けると「立花を討てば許してやる」という家康との密約があって鍋島軍が立花軍と戦ったというお話です。

 この結果鍋島が勝ったので佐賀藩が成立してゆき、立花宗茂も加藤清正のとりなしがあって命は助かったのですが、改易された宗茂が柳川藩主として再び返り咲くのは、江戸時代になってからでした。


 さて、筑後エリアは、戦国時代には書ききれないくらいいろいろな経緯があるものの、ざっくり言えば「肥前の龍造寺氏」の支配下にあった時期が長いと言えます。前回、絵下古賀の大塚氏と益田氏は、肥前から来たのではないかという話をしましたが、そのことと深い関係がありそうです。

 実は江戸時代になって、久留米藩有馬氏が各村に提出させた資料が残っており、そこにはこんなことが書いてあります。(寛延記 :久留米藩庄屋書上)

「八町牟田 古賀屋敷というところがあり、天正年間に龍造寺の家臣の古賀伊豆という人物がやってきたところである。(となりの)絵下古賀村にはこれまた龍造寺家臣の『隠岐』が住んで隠岐屋敷と呼ばれたが今は作地になっている」

 寛延年間は江戸時代の中頃で、戦国時代から見るとずいぶん後の時代です。その頃庄屋が報告した村の事情として

■ 八町牟田には龍造寺家臣の古賀伊豆が来た

■ 絵下古賀にも龍造寺家臣の隠岐が来た

と書かれているわけですね。

 残念ながらこの「隠岐」の苗字が残っていないので、困っているわけですが、私はこの隠岐は「大塚隠岐」だったのではないか?と考えています。


 さて、古賀伊豆と隠岐が筑後三潴に取り残されたのは、彼らが筑後支配の一翼として駐留したまではよかったのですが、そのすぐ後に龍造寺隆信が死んでしまったり、中央から秀吉の命を受けた軍師官兵衛ちゃんたちが押し寄せてきて、戦国時代が「はい、ここでストップ!」という事態になってしまったからです。

 隆信が死んで、佐賀では鍋島直茂がその後継者として台頭し、龍造寺の家督を乗っ取ってしまうような形になります。そういう意味でも、佐賀勢は外部駐留部隊の処理まで手が回らなくなっていたように感じます。

 古賀伊豆は、なんとその後も記録に残っていて、天正15年に、筑後に入った小笠原隆景によって大庄屋に任命されています。

”因云御國大庄屋の始りは天正十五寅年小早川隆景より、石井和泉・古賀伊豆・田代與膳三人に命せらる。是大庄屋の始りといふ。”(福岡県史資料6)

 これで当時の駐留武士たちが帰農したことがわかります。

☆「石井和泉」は肥前石井氏、石井忠清とおなじ官位を名乗っています。一族でしょうか?

☆「田代」氏も、現在の鳥栖市田代に当たる肥前田代の氏族の可能性が。


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 しかし、残念ながら「隠岐」が何者だったのかわかっていません。そこで、「北肥戦誌」など戦国期のことを記した書物で「隠岐」がつく人名がどのように、どれほど出てくるのか調べてみると、おもしろいことがわかりました。


■ 小田隠岐入道覚一    ……蒲池氏の家臣

■ 大塚隠岐守    ……神代氏の家臣 永禄8年の記録

■ 長野隠岐入道    ……大友氏の家臣

■ 龍造寺隠岐守家和    ……歴代龍造寺当主
■ 龍造寺隠岐守家氏
■ 龍造寺隠岐守康家
■ 龍造寺隠岐守家久

(北肥戦誌)

■ 小副川隠岐守 ……神代氏の家臣 天正4年討死

(三瀬町史)


 まず、目につくのは「龍造寺氏の当主が、みな隠岐守を名乗りとしている」という点です。これはけっこう重要事項だと思います。なぜなら龍造寺家臣団の中で「隠岐守」とは当主のイメージが強くなるからです。

 ということは龍造寺家臣なのに「隠岐守」を名乗ってしまえる人物とは、「根っからの龍造寺家臣ではなく、よそから合流した」可能性が高いということですね。

https://saga-otakara.jp/search/detail.php?id=647

によると小田氏は肥前蓮池城主で、龍造寺とは敵対していたため除外してOKでしょう。

 長野隠岐は大友家臣のため、これも除外です。

 可能性があるとすれば、神代家臣でのちに龍造寺軍に吸収される「大塚隠岐」「小副川隠岐」ぐらいしかいないことになります。

 大塚隠岐守は、この連載の3回めに登場しています。永禄8年の土生島城の戦いで、神代長良を脱出させるのに成功させた家臣として記録があり、ただし、そこで討ち死にしたとは書かれていない人物です。

 もし、神代長良とともに、のちに龍造寺家臣となっており、だから「隠岐」をそのまま名乗っても問題がないのであればつじつまは合います。

 また隠岐は天正年間に絵下古賀へ来ており、もし小副川隠岐であれば天正4年に死んでいるので、天正1〜4年の間だけいたことになります。まあ、これはこれでいったん保留にしておきます。

 逆に大塚隠岐が生き残っていれば、天正5年以降も、絵下古賀にやってこれることになります。

 記録によると天正8年の龍造寺の領地は、筑後エリアは「蒲池鎮漣」を家臣として支配していました。ところが天正9年には、蒲池氏は龍造寺隆信に滅ぼされてしまいます。

 そして、天正12年には隆信が死去、天正15年には秀吉配下の小笠原氏の支配が始まりますから、期間は絞り込んでゆくことができます。

 となると重要なのは、天正年間とは具体的にいつだったのか、ということになりそうです。

 次回はそのあたりの謎に迫ります。


(つづく)

 


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