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【筑後 大塚氏の研究02】 中世と大塚氏


 苗字とルーツを調べてゆくとき、実は2つの方向からアプローチすることができます。ひとつは、「古い時代から新しい時代にかけて調べてゆく」方法で、もうひとつは逆に「新しい時代から過去へ遡る」ものです。

 ふつう、先祖調査とか、ルーツ調べというと後者の考え方が主流で、まずは戸籍を順繰りに古い方向へたどっていったりするのですが、これはこれでOKです。

 ところが、たいていのおうちは、江戸末期に生まれたくらいの先祖が戸籍で見つかっておしまいになってしまいます。そこから先は、檀家であるお寺の過去帳や、墓碑をたどることになるのですが、それで万一うまくいっても、江戸時代まんなかぐらいの人名が判明して手詰まりになるわけです。

 江戸時代というのは徳川政権がなかなか罪深い施策を行ったせいで、庶民は特別な許可や事情がないかぎり「苗字」を名乗ることができないでいました。そのため、江戸時代については、「苗字をたどる」という方法も使えず、戒名や通称名が合致する人名がたまたま見つかればラッキー、くらいになってしまうことが多いのです。

 そこで、今度は逆方向から探ることになります。江戸時代以前、室町時代や鎌倉時代など、ある程度古い時代に「同じ苗字の氏族はいたのか」ということを探りながら、接点を見つける作業が必要になるのです。


 実は、福岡県の大塚氏を集落ごと、地域ごとに調べてゆくと、「わからない」ことのほうが多く、

”そもそもなぜ、その地区や地域に大塚という苗字が多いのか”

ということは不明である確率のほうが高いという状況があります。

 前回、「嘉穂郡」「山本郡」「三潴郡」などに大塚氏が多いことを示しましたが、なぜそうなのかは、あまりはっきりとは浮かび上がってきていないのが特徴だったりします。

(それに対して、九州以外の関東などでは、由来がはっきりしている地域もあるので、地方によって実情が異なるということでしょう)

 ですから、たとえば私は三潴郡の大塚をルーツに持ちますが、表面的には「なぜそこに大塚さんたちがたくさんいるのか」を示す記録はありません。

 これはやはり、260年続いた徳川幕府と各藩の施策で、苗字が奪われていたことが大きいように思います。九州地方では、江戸時代以前にその地方にいた「地場の氏族や土豪」の苗字や氏族の記憶をなるべく「消す」方向に動いていたということになるでしょう。

(国内の別の地域では「残す」方向で動いた地方ももちろんあります)


 そこで、江戸時代になって記録が消される前には、九州地方や福岡県にはどんな大塚氏がいたのか?ということが問題になります。それについては、ある程度記録を見つけることができます。

 中でも、おそらくエリア的に見て最大派閥であったのではないか?と考えられるのが、「武藤少弐系大塚氏」ではないでしょうか。


 武藤少弐氏は、戦国期以前の北部九州において最大の勢力であったにも関わらず、戦国時代前夜には滅びてしまった残念な一族です。その氏族の重要性は認識されながらも、ほかの戦国大名などに比べて、認知度も低い、これまた残念な氏族なのです。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%91%E5%BC%90%E6%B0%8F

 少弐氏は、平安末期に武藤資頼が太宰府の次官である「少弐」に任官されて、九州に地盤を持ちます。源頼朝の御家人として関東から下向したメンバーにはこの武藤資頼のほか、大友能直や島津忠久らがいますが、大友氏や島津氏とおなじくらい古いのに、あまり有名でないのはのちに没落してしまったからでしょう。

 それでもモンゴル軍が攻めてきた「元寇」の際には、少弐氏は鎮西奉行として現地の総大将を務めているので、もう少し認知度があってもいいのかな?とも感じます。

 少弐氏は当初は太宰府が拠点ですから筑前にいましたが、南北朝の動乱に巻き込まれたあたりから太宰府から佐賀県のほうへ徐々に追いやられてしまいます。戦国時代前期には周防大内氏が本州側から攻めてきて、さらに筑前から肥前方面へ逃げてゆくことになりました。

 最終的には、少弐氏は肥前で滅亡し、その地盤は龍造寺氏らに引き継がれることになりました。

 ただし、少弐本体は弱体化しましたが、その分家や庶流は意外としぶとく戦国武将として各地に散らばっています。鍋島氏、馬場氏、横岳氏、筑紫氏、朝日氏、平井氏などがあり、大塚氏もそのひとつです。

(鍋島氏は苗字の上では少弐庶流ではありませんが、姻戚関係をつうじて母方で血縁上はつながっているようです)

『九州には肩を並べる者がなく、子孫は次第に繁栄し、朝日・窪・出雲・平井・馬場・山井・志賀・大塚・加茂・吉田と名字が分かれる。一門はそれぞれ肥筑地方に蔓延って大勢の者となった』(出典 「北肥戦誌」)



 大塚氏が少弐から生じたという系譜は2種類確認されており、1つは佐賀藩士大塚氏が残したものです。

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大塚氏  本姓藤原 家紋重釘抜


武藤筑後守資頼より6代

- 頼尚 (大宰少弐筑前守) 

- 直資(新少弐早良次郎)

   冬資(大宰少弐)

   資俊(西筑前守) - 某(西弾正大弼) - 資忠(西山城守) - 資家(西尾張守)


<資家より>

- 俊氏(西三河守)

  嘉吉元年少弐教頼没落の時筑前より当国三根郡大塚村に来たり居、苗字を大塚に改め家紋靠目結を略して釘抜の紋とす。


- 家政(大塚三河守) - □ - □ - □ - 家俊(大塚左兵衛祇園原戦死)

  家郷(大塚左京亮 初め西上総介)


<家郷より>

- 家国(西陸奥守 後に改め倉町上野介家直)

- 頼宗(大塚左京亮 実は馬場伊豆守頼経の子)

   家光(倉町蔵人)


<家国より>

- 家宗(大塚三郎四郎) - 家清(大塚左京) - 盛家(大塚左京)


<家宗より>

- 家房(大塚新兵衛)

   宗清(左兵衛尉) - 氏清(右衛門允) - 為清(久右衛門) - 頼清(与兵衛)


<頼清より>

- 輔清(右衛門允) - 俊清(久右衛門)寛文元年卒

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(出典 渡辺文吉著『武藤少弐興亡史』海鳥社1989)


 この説をとると、室町時代に、佐賀県の三根郡大塚村に来た少弐の一族が、(当時「西」氏を名乗っていたグループ)「大塚」としたことがわかります。


 もうひとつの説は、

『少弐貞経入道妙恵に5人の男子があった。頼尚は世継ぎであり、次男は馬場肥前守経員と号した。三男は頼賢である。四男貞衡は大塚氏を称した。五男は僧宗応』(出典 「歴代鎮西志」原文漢文表記)

というもので、少弐貞経の四男から出た系統ということになります。貞経は鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての少弐家当主なので、こちらのほうが少し大塚氏の成立が古くなるかもしれませんが、いずれにしても大塚は少弐の分かれであることが記されています。

 佐賀の三根郡大塚村は、おおむね今の佐賀県三養基郡上峰町にあった「イオン上峰」近辺ではないかと推定されます。

 実は、現在の佐賀県三養基郡上峯村および神埼郡三田川町にまたがる目達原の地域に大塚・稲荷塚・塚山等の前方後円墳があったのですが、陸軍の飛行場建設のために破壊され、移動改葬されたようです。

(上峰町古墳公園)


(つづく)




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