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【筑後 大塚氏の研究04】 筑後 大塚氏のルーツを探る


 福岡県内における「大塚」姓の最大分布は、嘉穂郡です。しかし、嘉穂郡は筑前国なので、今回はいったん保留にしておきましょう。

 その次に分布が多いのが、現在久留米市である

■A 山本郡草野

になります。それから

■B 三潴郡絵下古賀

■C 山門郡大草

■D 田川郡安真木

■E 八女郡今村

と順に分布が続きます。これらはすべて筑後エリアになります。


 地名としての大塚村は、

◇1 筑後国御井郡大塚村 (14世紀 相良宗頼領地に筑後国高橋村大塚村三十三町あり)

◇2 筑後国山門郡大塚村 (現みやま市・旧山川町)

が確認できます。

 このうち、◇2の山門郡大塚村は、草野村と合併して「大草」という地名になっており、つまり、■Cの 山門郡大草の大塚氏は、「大塚村」という地名由来、もしくは地名と密接に関係があることがわかります。


 八女郡には広川町に「大塚1号墳」という大きな古墳があり、この場所が大塚と呼ばれた形跡があるのですが、■Eの大塚氏がいる今村とは少し距離が離れているため、関係は不明です。


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 九州北部の大塚氏は、このように現在分布が多い「村」から上流へ遡ろうとすると、よくわからないことが大半です。地元の地名に関係するものや、近辺の古墳に関わるものではないか?と単純な推測が成り立つものもありますが、「なぜ大塚という地名や遺跡がないのに、そこに大塚氏がいるのだろう」という不可思議なことも少なくありません。


 これは筑前でもおなじような傾向で、たとえば、嘉穂郡の桂川町土師には多数の大塚姓がありますが、

■ おなじ桂川町の寿命に「王塚古墳」という巨大古墳がある

■ 土師エリアはこの古墳に近いが、そもそも「土師」とは古代の葬送に関わる氏族を指す=埴輪を作るので土師

といったことを総合して、由来や成立過程を推測するしかないようにも感じます。


 日本の他の地域では、もう少し苗字の由来が明確に判明することが多いのですが、九州は秀吉の九州攻めの後、外部から支配者がたくさん入ってきたため、地場の氏族は抑圧傾向にあったのかもしれません。福岡藩黒田氏、久留米藩有馬氏、肥後細川氏、小倉小笠原氏など、ほとんどが本州勢です。

 江戸時代には、かなりの氏族が苗字を隠しながら過ごしたことになるわけです。


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 さて、私のルーツは三潴郡絵下古賀の大塚なのですが、実はこの地の大塚氏もほかと同様、「明確に記録された由来」はありません。昔は地元の大塚氏の一部に系図が残っていたという伝承もあるのですが、未確認です。

 ただ、さまざまな諸資料を検討すると、ある程度の由来が浮かび上がってきます。

 絵下古賀村の氏族は、分布数からみて3氏が古いものと思われます。

○ 北島氏 約30軒

○ 大塚氏 約20軒

○ 益田氏 約10軒

 このうち北島については、村のすぐ近辺の別の村に小字「北島」という地名があり、その地で生じた地場氏族なのではないか?と思われます。

(三潴郡大莞村大字奥牟田字北島)

☆また龍造寺家臣に北島姓の武士もおり、龍造寺家臣の可能性もあります。


 益田氏に関しては、肥前益田氏ではないか?と推測しています。佐賀県の与賀に”藤原姓高木氏流、益田氏”があり、肥前一の宮「河上神社の宮司」の氏族と考えられます。

 大塚氏が、素直に考えて「少弐系大塚」だったとしましょう。大塚氏も肥前からの移動とすれば話は合います。絵下古賀村の地場の氏族は北島氏で、そこへ「大塚氏と益田氏が肥前からやってきた」との仮説が成り立つのです。


 肥前高木氏も、太宰大弐を務めたことがある系統で、

https://saga-otakara.jp/search/detail.php?id=1819

によれば、

”草野、北野、上妻、於保、益田、八戸、笠寺、長瀬、富崎、龍造寺等の家系”

として、龍造寺氏の源流でもあります。戦国前夜には当然少弐軍団に属していました。

 こうしたことから「大塚氏と益田氏は元少弐グループ(=龍造寺・鍋島グループ)」と考えるのは矛盾が少ないと思います。


(つづく)








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