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『自分のため』からもれ出たもの

昨日はTwitter(現X)で知り合った写真を撮っている方と京都の夜市的点心酒場 好 ハオでご飯を食べた。

同い歳で普段は関東で会社員をしながら、休日に写真(主に人)を撮っているらしい。

「どうして人を撮るんですか?」

「散歩をしながら、話をしながら、撮影するのがすきなんです」

というような会話をした。

人と風景を切り取った写真そのものではなくて、写真ができあがる過程に楽しさがあるようで、その感覚にめちゃめちゃ共感した。

自分はものをつくる過程がすきで演劇をしている。
できあがったもの(そもそも上演自体も完成されたものではないんだけど)は過程からもれでた副産物のような感覚で、あくまでメインはつくる過程だと思いながら演劇に関わっている。

上演は自分にとっては副産物で、でもそれを観た・同じ時間を共有した誰かが楽しい気持ちになったり悲しい気持ちになったりしたら、おもしろいなあと思ってて。
「これは自分にあてられたメッセージだ」と勝手に受け取ってもらえるような演劇が、みるときもつくるときもいい演劇なような気がしている。

誰かのために、ではなくあくまでも自分は自分のしあわせのためにものをつくる。
そこからもれでた何かを勝手に受け取ってくれた誰かが、これは自分のために作られたものだ、と感じる。
つくった人は、このもれによって誰かが救われたことを知ることはできない。むしろ知らない方がいい。そうやって知らない誰かを予期せず救済してしまうものが芸術なんじゃないかと思ったりもする。

そんなことを話しながら、早朝、彼は始発で兵庫県の豊岡に旅立っていった。

わたしも追って豊岡に移動中。

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