記憶の中の落語家(1)六代目笑福亭松鶴【*】
私は1954年に生まれ、1973年(=第一次オイルショック)に高校卒業、まさに高度経済成長と軌を一にした世代である。「エネルギー革命(石炭→石油)」と「燃料革命(薪炭→LPガス)」の同時進行は、目に見える形で生活を豊かにしてくれた。家庭には、プロパンガス・炊飯器・洗濯機・冷蔵庫と消費生活の大きな変化が訪れたが、何よりもテレビの登場は、大衆文化の普及に大きな役割を果たした。私の生家は田舎の貧しい寺、周囲より遅れてやって来たテレビは白黒の中古品、それでも連日食い入るように見たものだった。
土曜日ともなれば急いで学校を飛び出し、朝日放送の「道頓堀アワー」を見るのが最上の楽しみ。角座【**】の寄席中継(ほとんど漫才、たまに落語)、中座の松竹新喜劇(渋谷天外&藤山寛美!)。漫才と言えば、砂川捨丸・中村春代、三遊亭小円・木村栄子、ミスワカサ・島ひろし、上方柳次・柳太、若井はんじ・けんじ、三人奴、かしまし娘、フラワーショー、ちゃっきり娘・・・(順不同)。たまに登場する落語では、松鶴・米朝の顔を覚えている。
さて、松鶴(しょかく)である。光鶴(こかく)・枝鶴(しかく)を経て、六代目を襲名したのが1962年3月1日のこと。当時私は7歳であるが、襲名披露興行の番宣で、テレビアナウンサーの求めに応じていくつかのネタのさわりを演じていたことを覚えている。
1970年4月に兵庫県立伊丹高等学校に入学、選んだクラブ活動が「落語研究会」。当時は「おちけん」ではなく「らっけん」と呼んでいたが、それが一般的であったかどうかは分からない。このクラブを創設されたのが5年上の松岡先輩、卒業して六代目に入門された現・笑福亭呂鶴師である。クラブ活動として年に数回の発表会、文化祭への出演などあるが、ときおり松岡先輩にもお越し頂き、その際に(ほぼ)同期の鶴三(かくざ)さん(後の六代目笑福亭松喬師)も何度か来て下さった。先輩が用意した祝儀袋を「わしからと言うたらあかんで」と念を押された上で、鶴三さんに御礼としてお渡ししたこともあった。
この松岡先輩の初舞台が、やはり道頓堀・角座であって、クラブのメンバーみなで応援(?)に出かけたのが私の角座デビュー(多分)。当日、最後列に座っていたおっちゃんにクラブ顧問のK先生が挨拶され、生松鶴であることをはじめて知った。先輩の初舞台のネタは「牛ほめ」、途中で言葉につまったとき、客席から「種子島へ返すぞ!」と声がかかったが、多分ラジオ番組のレポーターとしてしばらく種子島に行かれていたのだったかと。
当時の角座は、上述したように漫才中心の番組であるが、年に数回、余一会的な落語会が企画され、その時ばかりは無理をしてでも駆けつけた。とは言え、兵庫県川辺郡猪名川町という阪神間の北端の田舎に住んでいたから、道頓堀の夜の会を楽しんだ後、阪急池田駅のバスターミナルに着く頃には最終バスはとっくに出ている。この時ばかりは、母に無理を言ってタクシー代を都合して貰っていた。
小さい頃見ていたテレビでは、持ち時間の関係で「相撲場風景」のようなどこでも切れる噺が中心だったと思う。角座ではどんな噺を聴いたのか、残念ながら記憶が薄れているのだが、「植木屋娘」を聴いたことは確かだ。何しろ、請求書を書く場面で帳面に見立てる手ぬぐいを忘れ、手振りで表現していたことをよく覚えている。周囲からも、「手ぬぐい忘れよった」というささやきが聞こえたので確かなことだろう。他には「天王寺詣り」、これも角座であろうと思うが、大阪の人情・風俗を目の前で描写してその世界に誘う噺の力・落語家の技量に感動・感服したものだった。
その後、一浪の後大学生となり、学生結婚・息子が3人、父の入院・療養サポート、普通の学生とはかなり異なった生活展開の中で、生松鶴に会うことは叶わなくなってしまった。
六代目をご存じない方のために、Youtube から映像を拝借。
ともかく、生で聴いたのは数度だけだが、声の大きさや滑舌の良さ、上方落語の第一人者としての元気な頃の姿に直に触れられたことはとても有り難く、貴重な財産となっている。
【*】略歴(Wikipediaから)
6代目 笑福亭 松鶴(しょうふくてい しょかく、1918年8月17日 - 1986年9月5日)は、落語家。大阪府大阪市出身。生前は上方落語協会会長。本名は竹内 日出男(たけうち ひでお)。出囃子は「舟行き」。父は同じく落語家5代目笑福亭松鶴。母は落語家6代目林家正楽の養女。息子は同じく落語家5代目笑福亭枝鶴(後に廃業)。甥は笑福亭小つるを名乗って松鶴と共に若い頃修行していたこともある和多田勝。
【**】道頓堀角座(Wikipediaから)
江戸時代は「角の芝居」とも呼ばれた芝居小屋であった。戎橋側から浪花座、中座、角座、朝日座、弁天座の5つの芝居小屋を「五つ櫓」(いつつやぐら)又は「道頓堀五座」と呼んだ。1758年(宝暦8年)、歌舞伎の舞台に不可欠である「回り舞台」が初めて採用され、以降全国的に広まる。1920年(大正9年)松竹の経営に移る。以降松竹系の演劇興行が行われたが、戦災で焼失。戦後「SY角座」となり洋画専門の映画館として復興した。
1958年(昭和33年)、演芸プロダクションの新生プロダクション(勝忠男代表)と上方演芸(秋田實代表)は、それまで芸人を供給していた千日前の歌舞伎地下演芸場が4月一杯で閉鎖される事となったため、代替の出演場所を探して松竹を頼る事となった。松竹は角座を演芸場に改装の上5月に再開場、大規模な映画館の設定をそのまま生かして演芸場に転用した事で、従来の演芸場にはない1000席規模の「マンモス演芸場」が誕生した。さらに芸人供給元の新生・上方両社は松竹の出資を受けて合併、松竹新演芸(後の松竹芸能)が発足した。
演芸場となってからの角座は、引き続き松竹が経営し興行を行ってはいたが、実際の番組編成や芸人の配給等一切は松竹芸能が執り仕切っていた。このため、松竹芸能の盛衰と運命を共にする事となり、1960年代~1970年代は上方演芸の殿堂として隆盛を誇っていたが、1980年代の漫才ブームでは一転して吉本興業の花月劇場チェーンに水を空けられる結果となった。