侯孝賢と私の台湾ニューシネマ
平田オリザのロボット演劇は当然ながらにその新奇性に注目が集まり、夕方六時のニュースで取り上げられるまでに至った。どこのチャンネルだったかは忘れたが、VTRを受けての男性アナウンサーのコメントだけは今もはっきりとおぼえている。
「いつかロボットが感情を持つ日が来るかもしれませんね」
残念ながらそういうことではない。セリフをインプットされたロボットたちが、顔の表情や声の抑揚に頼らず(頼れず)、ただ段取りを忠実にこなすことで観客の心を打つ。その点に独創性があるのであって、ロボットが感情を持ってしまっては地方の大学演劇と変わりがない。言うまでもなく平田の試みは小津安二郎の方法論を踏襲したもので、一見奇形的な演出は、設計図となる堅牢な脚本のうえにおいてのみ成立する。野田高悟が原節子の微笑や佐田啓二の無表情の裏に縫い込んだ心の綾を読み取るのでなければ、あとはスタティックな切り返しを見るしかなくなるだろう。さすが侯孝賢は、長くタッグを組んできた脚本家の朱天文との対談のなかで、小津作品をこう評している。
〈彼は生活のシーンを要素として映像を構築するが、それはやがてドラマのテンションへと到達する。この場合の構造とは、既存のリアリティに適合するようにそれぞれのシーンがきちんと作られていくこと。たとえば、どんな時間帯に何をしているのか、それは現実的なのかどうか、という基礎の上に、ドラマ性を加味する。(中略)だから脚本に沿って各シーンをきちんと分けて、一つ一つこなせば編集を通じて、ジャンル映画になるはずだよ〉
つまり彼はOzuをアートフィルムの作家としてではなく、娯楽映画の手本に見立てているのである。しかしながら、この対談を巻末に収めた『侯孝賢と私の台湾ニューシネマ』を読むかぎりにおいて、著者の朱天文の目から見た侯孝賢の作家性は、必ずしも大向こうの観客に寄り添うものではないことがわかる。同対談で彼女はこう述べている。
〈監督は脚本の内容を撮影の過程で捨てていき、出来上がったものは別のかたちをしているということ。思うに、あなたの映画でより素晴らしい作品とは、討論しているときのものだわ。いざ撮影すると、滑稽な部分だったり、高揚感だったりというものが、どうしてすっかり消え失せているのでしょう?〉
長回しとロングショットを好み、俳優の生理と自発性とを重んじるそのスタイルは、小津よりもむしろ相米慎二や神代辰巳に近い。〈撮影の対象に入っていこうとして、その対象に集中するとき、対象自体が何かを語りかけてくる〉という侯孝賢の持論がその証左になりはしないか。小説家でもある朱天文の散文的感性が切り取る永遠の一瞬は、人なつっこくも頑固なマエストロと観客とをつなぐ架け橋だろう。彼女が脚本を手がけた『台北ストーリー』の章に印象的なシーンがある。監督のエドワード・ヤンと主演女優でのちに彼の妻となる蔡琴、そして彼女の相手役を演じる侯孝賢との四人で成都路から新公園まで歩いた夜のこと。
〈「もう来年のカレンダーを売ってる。今年ももうすぐ終わりなのね」と蔡琴が言った。彼女はナツメ色のニットのロングスカートに、肩パットが入った襟の大きなオフホワイトのウールのジャケットを羽織って、道々、アクセサリーの店をのぞいたり、文房具店に入って日記帳を二冊買ったりした。ヤンは孝賢にアディダスのスニーカーを一足買った。アリョンを演じるために今から履きならしておいたほうがいいと思ったのだ。雨のあとの空気は透明で爽やかだった。男たちは男同士の話があるからと、二人で前を歩き、私と蔡琴は後ろを歩く。とても安心感があった〉
朱天文が帰りのバスの窓から眺める東門は寒空に煌々と輝いて、映画のハイライトを飾る「中華民國萬歳」のイルミネーションと対のイメージをなし、観客の記憶を重層的なものにするだろう。〈音と光の厚みと密度により 劇場を出た瞬間どっちが夢でどっちが現実か混乱する それは本当の夢だ〉(『映画に毛が3本!』より)という黒田硫黄の『フラワーズ・オブ・シャンハイ』評は、本著の読後にこそ実感をもって迫り、朱天文と侯孝賢との相性の良さを再確認させる。思えば、『戯夢人生』の演出のメカニズムを論じる章では、ひいては映画というメディアの属性を丁寧にときほぐしつつ、彼女自身の映画観を開陳してもいたのだった。暗がりを通り過ぎてゆくあらゆるイメージを反芻し、対話を重ねること。侯孝賢が観客に提供する余白のなかでよみがえってくるものは、事実にして、朱天文の「筆致」によるところが大きい。
〈散文のように、時として人生のある一幕、ある雰囲気だけで、何も起こらないものを、どうやって書けばよいのだろうか。文章そのものに力を持たせ、感情を込めるしかないだろう〉
ふつふつとたぎる彼女の内面が、スクリーンによって濾過されるその時を、世界中の映画ファンはいつも待ち焦がれているのである。
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