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九天九地9:なまずが告げる、大地震

釜鳴り

安政二年のこと、二十四歳になった嘉兵衛は、押しも押されもせぬ材木商となり、手広く商売を手掛けていた。
爽やかな秋風が、頬を撫でるようになった九月のある日、普請中の大名屋敷の現場を見回った嘉兵衛は、帰宅途上で弟の徳右衛門と出会った。

久々のことなので、二人は一緒に銭湯に行くことにしたのだが、徳右衛門が何か言いたげながらも、妙に口ごもっているのに、嘉兵衛は気づいた。
問いただしてみると、家で不思議なことが起こったというのだ。徳右衛門の家の釜が、全く火の気もないのに鳴りだし、辺り一帯にまでその音が響いたという。

嘉兵衛は考え込みながら家路につき、妻のおしげが準備した夕餉の膳についた。

「あれ?またなまずかい?、このごろ、ずいぶんとなまずが出るなぁ…」

「なまずが沢山採れて安いのです。とにかく魚屋さんの話では、このごろ江戸付近では、なまずが手づかみにできるほど採れるそうです。」

「奇妙な話だな。亡くなった父の話では、霞ヶ浦にはなまずの化け物が棲んでいて、そいつが暴れると大地震が起こる。だから香取神社の神様が要石で抑えているという話だったが…」

「一時に比べれば、半値以下の値段なのです。あまりに採れすぎて、このぶんでは、しまいに犬も飽きてしまって食わなくなるのではないか、なんて、魚屋さんが言っていましたよ」

嘉兵衛は、ふと箸を持つ手を止めて考え込んだ。

(なまずが地震を起こすなんてそんな馬鹿な話はないだろうが、動物と言うのは異変に敏感なものだ。不思議な予知能力を持っているとも言われている。なまずの大量発生は何かの予兆かもしれない…)

「なまずのほかにも、少し妙なことがあったのですよ。今日のお昼ごろですが、お台所のお釜が自然に鳴り出しました。火の気もありませんのに。不思議な音を出しながら半時ばかりも鳴り続けたあと、自然に止みました」
嘉兵衛は小首を傾げながら、食卓を後にして仏間へ入って行った。
何か気持ちが定まらない時は、ここで心身統一をするのが習慣なのだ。観音経を誦して心を澄ませた後、筮竹を取り上げてみた。筮竹を切る方法ぐらいは心得ている。たまにこうして自分で占ってみることもある。

出た卦は『離為火』上九。

玉用いて出でて征し、首を挫くを嘉する有り。獲ること其の醜に匪ず。咎なし。

離為火とは、火+火の卦である。
自ら進んで功績を立て、その手柄を君に認められるという卦である。
嘉兵衛は考え込んだ。そしてある結論に達した後…

この一占に賭ける覚悟を決めたのである。
腹を決めたら行動は早い。彼は馬を飛ばして、鍋島藩江戸屋敷へと駆けつけた。

鍋島藩江戸屋敷…「離為火」

鍋島藩は、先代からの付き合いである嘉兵衛に対する信任は篤い。
夜ではあったが、衣服をあらためて出て来た留守居役の井上善兵衛に、嘉兵衛はいきなり頼み込んだ。

「おそれながら、金一千両、早急にお貸しいただけますまいか。」

勢い込んで、大枚一千両の融通を頼み込んでくる嘉兵衛に、会計担当でもある井上は目を丸くした。
十両盗めば首が飛ぶこの時代。驚きも当然である。

「いったい何に使う金だ・・・?」

「実は、手前の友人が、尾張家ご領内の山林買い占めにかかりました。一山の代金、およそ五千両ですが、伐採して江戸に運んでくれば、その売値はおよそ一万両を超えましょう。しかし、その予約金が、どうしても一千両ほど不足しております。明日までにその一千両の都合がつかなければ、この話はご破算となるどころか、支払い済の手付金も没収となってしまいます。その相談が持ち込まれましては、見るに見かね、こうしてお願いに上がった次第でございます。」

あり得ない話ではなさそうだが、もちろん真っ赤な嘘だ。しかし何しろ、嘉兵衛の普段の働きが働きなだけに信用絶大で、相手は信じ込んでしまった。

「なるほど・・・それは不慮の事態だな。事情はよくわかった。しかし明朝までとなれば、今夜じゅうに現金の手配が必要だが、返済の条件は如何に?」

「手前どもがご当家に納めます、材木及び工事請負代金は、年間数千両に上ります。その中より返済となれば、さほど難しいことではございません。もちろん相応の利息は心得ております」

「うむ、それならば、重役がたも嫌とはおっしゃるまい。しばらくここで待つが良い」

綱渡りの商談

…待つ間、嘉兵衛は忙しく頭の中で計算した。
江戸中の有名な材木問屋と、その店の在庫量。
材木買占めにかかるとしても、小さな店ではせっかくの儲けをふいにしたかと臍を噛むことだろう。余裕のある店を選ぼう。そこまで計算を巡らせる嘉兵衛…

嘉兵衛がなぜ、このような計算を始めたかというと、急に材木相場が暴騰するという読みである。それは、何故なのか?なぜ、江戸の材木相場が、いきなり高騰するという読みを建てたのか?
それはどういうことなのだろうか…?

「離為火!」

なまずの大群、
謎の釜鳴り、
そして「火+火」を現す易卦。

嘉兵衛は、江戸の町が大火に見舞われる、という読みを建てたのである。

上も火、下も火、カッカと燃えている、急げ!…離為火という卦の読みに、すべてを賭けたのである。
ちょっとこのへん、山師っぽいが、もともと盛岡の鉱山事業請負で、山師は本業である。洒落ではなく、真面目に本物の山師気質を培ってもいる。

「喜べ、話はまとまった。日頃から殿の信用も篤いそのほう、このはからいが後日お耳に入っても、依存はあるまいとの家老方の御意見。一千両を即刻現金にて引渡すぞ。しかし、この夜中に、千両箱を積んでの帰宅では物騒でもあるから、当家より警固の者をつけてつかわそう」

嘉兵衛は現金を手にするや、あらかじめ引き連れて来ていた手代数名を、その足で各材木問屋に先回りさせ、商談にあたらせた。

当時の江戸は不景気が続き、木材の価格は極度に安かった。また当時の商法では、一割程度の手付金で取引が決まり、後日の価格の変動にかかわらず、確実に取引価格で受け渡しされることになっていた。
この慣習を破った者は、二度とその後の商売ができなくなる為、この約束は確実に守られたと言う。

とにかく、徹夜で商談に歩いた結果、たった一夜で約一万両に上る取引が終わった。
家路についた嘉兵衛の懐には、何十枚かの証文が入っていたが、千両の現金は一枚残らず消えていた。

一生に一度の大芝居、大博打、もしこれで何事も起こらなかったならば、確実に破産である。さすがにその夜は、さすがの嘉兵衛も一睡もできなかった。胸中察して余りあるところである。

秋晴れの後に

さて、夜が明けて、天には雲一つない日本晴れ。
火事の気配など、どこにもない。
いや、そよ風一つないのだ。この天候では、万が一、火事が起こっても、すぐに鎮火して大事には至らないだろう。

一方、木材の現品の引き取りは5日以内と決まっている。そうのんびりと天変地異を待ってはいられないのだ。嘉兵衛は居ても立ってもいられない。しかしもう、後は待つしかないのだ。

何を待つのか?そう…お江戸の大火…。花のお江戸が大火事で焼け落ちるのを、命がけで待っているのだ。

「人事を尽くして天命を待つ」という言葉は、果たしてこういう時にも当てはまるのだろうか?と妙な心配が出てきそうである。

その日の午後…嘉兵衛は駕籠をとばして、高輪泉岳寺に父の墓を訪ねた。

「江戸に大火が起こって欲しい…などという、大それたことを願うわけにはいきません。しかし、お約束でございます。この利益は、びた一文として私(わたくし)いたしません。どうぞ、私を男にして下さい。それだけが願いでございます」

嘉兵衛は静かに、墓前にひざまづいて祈り続けた。
その時、彼の五感が、かすかに大地の異常を捉えた。
墓の傍の大樹が、風もないのに枝を鳴らしたのだ。

九天九地10へ続く

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