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九天九地10:天地騒乱・江戸激震

安政の大地震!

材木の買収を一通り終えた二日後、嘉兵衛は本郷の戸田家屋敷に招かれていた。
嘉兵衛の長姉が戸田家の祐筆として奉公しているうち、主君の寵愛を得て男児を出産、その子が戸田家の家督を相続するという、目出度い祝宴の場である。

酒を振舞われて、何とも気持ちの良いほろ酔いでいた嘉兵衛は、駕籠の中で居眠りしていた。

ほろ酔いついでに、吉原を目指していた駕籠が、湯島切通しの加賀藩の長屋に差し掛かった頃である。駕籠の中で、心地よい揺れに身を任せつつうたた寝していた嘉兵衛を、突如、百雷のような大音響が襲った。

「旦那!地震ですぜ!!」

木の葉のように舞う駕籠から、辛うじて這い出した嘉兵衛の目に映ったのは、町家がぐらぐら揺れ動き、戸障子が微塵に砕けて飛び散っていくさまだった。

続いて、第二震。

辺りの家々は将棋倒しに崩れ落ち、戸や障子は破れて散乱し、瓦は砕け散った。
人々の悲鳴や怒号が飛び交う。まさに生き地獄、安政の大地震である。

安政二年十月二日(旧暦)
この日の江戸の大地震は、大正十二年の関東大震災に勝るとも劣らぬ規模で、甚大な被害をもたらした。

安政の地震は、日本各地で何度か連続して起こっているが、江戸に被害をもたらした最大の地震は、この安政二年十月二日の地震である。
マグニチュード7クラスだったというから、江戸時代としては大変な災害だったことだろう。

一説では、死者総数20万人というから、江戸100万の住人のうち、5人に一人が命を落としたという凄まじさである。
当時の大学者であった藤田東湖も、この地震の時に水戸藩江戸屋敷で読書中、病床にあった母を救い出そうとして梁の下敷きになり、51歳で命を落としている。
彼がもっと永らえていれば、幕末の歴史は変わっていただろうと言われるほどの、惜しい人物であった。しかしこれは、安政地震の惨事のほんの一端であろう。

嘉兵衛の頭の中は、現実的な方面にめまぐるしく回転しはじめた。
買い占めた材木の値段は、どれぐらいになるだろう?
現物を引き取るさいの、残金の工面はどうしたら…?

非常の際のこととて、その場で駕篭かきを家に帰した嘉兵衛は、京橋目指して歩き出した。
黄塵が濛々と立ち上り、早くもあちこちから火の手が上がり始めている。この有様では消化活動も及ばず、たちまちのうちに江戸じゅうが火の海となり、後に残るのは焼け野原のみとなること、必定。

夜が更けてから、やっとのことで自宅に帰りついた嘉兵衛だったが、さすがに材木問屋だけのことはある。
手抜きのないしっかりした基礎工事を施しただけあって、地震にも倒れず、周囲を堀に囲まれているので飛び火の恐れもなく、人手も揃っている。
この問屋町は、無事に原型をとどめていた。ほっと胸を撫で下ろす嘉兵衛だった。

奥から飛び出してきた女房のおしげが、涙を浮かべながらもほっとした面持ちで迎える。
番頭、手代も揃っている。次の仕事は、何はともあれ、翌朝すぐに、南部藩、鍋島藩の屋敷へ火事見舞いを差し向けることだった。

鍋島藩の惨状

鍋島藩は、上屋敷、中屋敷、下屋敷とも、すべて炎上壊滅の憂き目にあって、まったく原型を留めていなかった。
嘉兵衛は早朝から、戸板百枚、草履七百足、焼け跡の板囲いの為の幕杭300本を当座の見舞い品として、鍋島藩を訪れた。

なんと言っても、大名屋敷の焼け跡には、すぐさま板囲いをして幕を張り巡らし、内部を窺わせないようにするのが、真っ先にすべきことである。
しかし非常の際のこと、お互いの無事を確かめるのに精一杯で、誰もそこまで気が回っていなかった。
迅速適切な対応を感謝された嘉兵衛、さっそく次の仕事である。

「殿はちょうど昨日、国許をお発ちになり、江戸へと向かわれている。早飛脚でお知らせはしたが、殿のご気性ではそのまま出府なさることであろう。」

「いかにも然様でございましょう」

「それで、殿が到着される前に、今日から30日以内に仮のお住まい、奥方のお住まい、家中の者達の住居六百軒を建ててはくれまいか。火急の工事ゆえ、費用の件は何としてでも取らせるが、この工事、かなりの難題でもある。何とか引き受けてくれぬか」

さすがに弱り切った井上善兵衛の口調だが、本来これは、嘉兵衛にとっても、渡りに舟、という注文である。
すぐさま、胸を叩いて引き受けたいところではある。
しかし、よく考えてみると、事態が余りに大規模である。この大地震が江戸だけに限定されたものならば、他の地域からの応援を頼むこともできる。しかし被害がもっと広範囲に及んでいれば、事はそう簡単ではない。

「よろしゅうございます。いかにも嘉兵衛お引き受けいたしますが、とりあえずは仮普請としてお引き受けし、今後また地震が襲うことも考えに入れて、普請をすることにいたしましょう。」

快く答えた嘉兵衛に、井上善兵衛はホッとした面持ちで、全て嘉兵衛に一任しよう、と応じた。

「つきましては、何と言っても先立つものがなければ、材木、職人の手間賃など、普段にも増して高騰しております。それもこの先、どこまで暴騰するか分からぬ現状です。早く前金で抑えなければ、普段の数倍、いや、どこまで跳ね上がるか、その見当さえつきかねます。先日の金一千両は、申し上げました通りの山林買占めの目的にあてましたゆえ、手前どもの手元にも余裕がございませぬ」

「いかにももっともだ。いかほど入用じゃ?」

「前回の千両は別にしまして、とりあえず金一万両、前渡し金としていただきとうございます。清算の方は工事完了次第、実費にしかるべき利益を添えて、決済願いたく存じます」

「よし、あい分かった。ところで、その金子だが、あの地震の折、当屋敷の金子は残らず屋敷の中の井戸に投げ込んである。十間余りの深さゆえ、どのような事態になろうとも安全だろうと思ってな。今日は早朝より、潜水の達者な井戸屋を呼び集めて、引き上げにあたらせている。今しばらく待たれい」

買い占めと再建

この処置には、嘉兵衛も思わず舌を巻いた。
これほどの非常時に、家臣の一人一人がここまで気をきかして、しっかりと非常の措置を取ったのも、鍋島候の教育が末端まで行き届いている証拠である。
これで材木引取りの残金の目当てもつき、それにつけても自分は幸運だったと思わずにいられない。

「有難うございます。それでは、建築の基本方針だけ申し上げておきます。今後とも、地震発生の可能性が皆無とは申せませぬ。その対策といたしまして、屋根は上等の銅でもって張り詰め、その下はこけら葺きとし、壁は寒さに向かうことゆえ、板羽目にして紙で目張りをいたすのがよろしかろうと存じます」

「うむ、細かな点はその方に任せた。それではくれぐれも頼んだぞ」

まもなく、十の千両箱が嘉兵衛の前に運ばれて来た。
これだけの大金を目にするのは、さすがの嘉兵衛も初めてである。思わず、身が震える思いである。
千両箱を開いて中を改めた後、四人肩の駕籠を呼び、百両包みを駕籠布団の下に敷き詰め、自分はその上に胡坐をかいた。

当時の小判の重さは、千両で11キロ強ぐらいだったので、一万両だと約110キロ強になる。嘉兵衛の体重を入れると、約200キロ。駕籠かきも楽ではない。

嘉兵衛が千両箱の上に鎮座する様を想像すると、現代ではつい、札束のベッドとか風呂で浮かれている、成金ナルコス映画を思い出してしまいそうではある。
紙の札束ではなく、純金の小判だから、こっちのほうがずっと格上だ。

実際は、そんな下世話な連想とは無縁で、嘉兵衛は三日前に予約した店を回り、残りの代金すべてを支払ってしまったので、一万両の小判はきれいさっぱり消えた。

材木引取りの手筈を済ませた嘉兵衛に、さすが江戸の商人、文句を言う者は一人としていない。当然、地震後のこの3日間、材木の価格は天井知らずと言われたぐらいに高騰していたのだが、木場の全ての問屋が、契約を約束通りに実行した。

ただ一人、吉田屋新兵衛という問屋だけが、ちらりと皮肉を漏らしたものだ。

「嘉兵衛さん、お前さん、大儲けをしなすったねえ。3日で四倍にはねあがった材木だが、この状態では後金の工面がつく筈はない、手付金も品物もこっちのもの、お気の毒に…と思っていたのが当てが外れちゃったよ。もちろん、約束どおり品物はお渡ししますさ。しかし、忘れちゃいけねえ、こんな幸運は二度と来ないぜ。あんたがなまずの親類ででもない限り、柳の下に二匹の泥鰌はいねえから、そこんとこ、肝に銘じてな」

ここまでツキまくっている嘉兵衛に、この言葉がどこまで染み入ったかは分からない。
この時嘉兵衛、わずか二十二歳。しかしこの工事、約三十日の期限までに、深川木場と鍋島屋敷の間を駕籠で往復するだけの毎日。草鞋の紐も解かなかったというのだから、超人的な体力、努力である。

その甲斐あって、鍋島屋敷の完成は他の大名屋敷よりもずっと早かった。鍋島候の江戸入り当日には立派な仮屋敷が仕上がっていた。鍋島候も嘉兵衛の活躍を聞いて、「この親にしてこの子あり」と膝を叩かれたという。

江戸の噂

この材木調達の蔭には、ちょっとした裏話がある。
嘉兵衛の材木買い占めは、瞬く間に江戸じゅうの噂になった。当然ながら、やっかみまじりで、嘉兵衛を奸計に長けた詐欺師まがいの人物と見做す輩もあり、嘉兵衛は幕府の厳しい取り調べを受けた。
江戸幕府も、そうぼんやりしている訳では無い。

この辺りから、大当たりを引いた嘉兵衛に、九天九地の底知れぬ暗黒面が、影を落とし始めるのである。
これらの裏話は、大当たりの後の地獄の始まりにも通じる話なので、次回にて。

九天九地11に続く
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