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【読書ノート】『日本の思想』①

 
読んでいく本は、丸山真男『日本の思想』(岩波新書)です。


この本の目的

  この本の出発点は、丸山が外国人の日本研究者によく聞かれる以下のような質問だ。「日本のインテレクチュアル・ヒストリィ」を通観した書物はないか?」(p.2)。インテレクチュアル・ヒストリィとは、本文の言葉を借りると、「各時代の「インテリジェンス」のあり方や世界像の歴史的変遷を辿るような研究」、「時代の知性的構造や世界観の発展あるいは史的連関を辿るような研究」ということらしい。そして、そういう質問は、丸山を困らせてしまう。仏教史や儒学史みたいな個別の通史はあっても、全体を一気通貫で見通せるようなものはないからだ。
  というわけで、この本はそういう見通しを作る本だということが予告される。

座標軸がない

  研究状況を概観しつつ、丸山は以下のように結論づける。

……つまりこれはあらゆる時代の観念や思想に否応なく相互連関性を与え、すべての思想的立場がそれとの関係で――否定を通じてでも――自己を歴史的に位置づけるような中核あるいは座標軸に当る思想的伝統はわが国には形成されなかった、ということだ。私達はこうした自分の置かれた位置をただ悲嘆したり美化したりしないで、まずその現実を見すえて、そこから出発するほかはなかろう。

丸山真男『日本の思想』p.5

  「自己を歴史的に位置づけるような中核あるいは座標軸に当る思想的伝統はわが国には形成されなかった」というが、残念だと嘆いていても事態は変わらない。現状を認識して、あらたに「座標軸」を作っていかなければ、外国人の日本研究者の質問にはいつまでたっても答えられない。ひるがえって言えば、私たちにとってもよくわからないままになってしまう。だったらそれを作ろう、ということになる。座標軸を作る、言い換えれば、それは「思想の伝統化」ということになる。

……私達が思想というもののこれまでのありかた、批判様式、あるいはうけとりかたを検討して、もしそのなかに思想が蓄積され構造化されることを妨げて来た諸契機があるとするならば、そういう契機を片端から問題にしてゆくことを通じて、必ずしも究極の原因まで遡らなくとも、すこしでも現在の地点から進む途がひらけるのではなかろうか。なぜなら、思想と思想との間に本当の対話なり対決が行われないような「伝統」の変革なしには、およそ思想の伝統化はのぞむべくもないからである。

丸山真男『日本の思想』p.7

  本文の言葉をすこし変えて言えば、目指すのは(目指されるべきは)、思想が蓄積され構造化されること=思想の伝統化、である。その方法が、蓄積、構造化を妨げて来た諸契機を「片端から問題にしてゆくこと」である。

開国の意味したもの

  日本における思想、特に欧米思想との出会いは、やはり歴史的に大きな意味をもつ。

ただ、日本人の内面生活における思想の入りこみかた、その相互関係という点では根底的に歴史的連続性があるとしても、維新を境として国民的精神状況においても個人の思想行動をとって見ても、その前後で景観が著しくことなって見えるのは、開国という決定的な事件がそこに介入しているからである。
……
開国という意味には、自己を外つまり国際社会に開くと同時に、国際社会にたいして自己を国=統一国家として画するという両面性が内包されている。その両面の課題に直面したのがアジアの「後進」地域に共通する運命であった。そうして、この運命に圧倒されずに、これを自主的にきりひらいたのは、十九世紀においては日本だけであった。

丸山真男『日本の思想』p.11

  江戸時代の鎖国から、黒船来航(1853)によって、日本は開国することになった。そうして明治維新が起こる。その衝撃は、経済や軍事だけでなく思想にも及ぶ。鎖国といっても、完全に海外の文物が入ってこなくなっていたわけではなく、長崎の出島を経由して、オランダ語の書物などは入ってきていた。とはいえ、維新後の状況と江戸時代の状況では、やはり様相が一変したと言わざるをえないだろう。海外の文物がどっと流入してきた。その流入してきた時期によって、日本の近代の性格は(丸山の言葉で言えば)「超近代と前近代とが独特に結合している」(同書 p.6)ものになった。

ふと思い出す伝統思想

  丸山は、日本に元々思想がなかったとまでは言っていない。伝統思想の例として「無常観」、「もののあわれ」、「固有信仰の幽冥観」、「儒教的倫理」などが挙げられているが、欧米の文物を取り入れていくことでそれらが完全に消え去ったわけではない。むしろ、ふと思い出されるのだ。丸山は小林秀雄の「歴史はつまるところ思い出だ」という考えを引いて、以下のように言う。

むしろ過去は自覚的に対象化されて現在のなかに「止揚」されないからこそ、それはいわば背後から現在のなかにすべりこむのである。思想が伝統として蓄積されないということと、「伝統」思想のズルズルべったりの無関連な潜入とは実は同じことの両面にすぎない。一定の時間的順序で入って来たいろいろな思想が、ただ精神の内面における空間的配置をかえるだけでいわば無時間的に併存する傾向をもつことによって、却ってそれらは歴史的な構造性を失ってしまう。
……
新たなもの、本来異質的なものまでが過去との十全な対決なしにつぎつぎと摂取されるから、新たなものの勝利はおどろくほどに早い。過去は過去として自覚的に現在と向きあわずに、傍におしやられ、あるいは下に沈降して意識から消え「忘却」されるので、それは時あって突如として「思い出」として噴出することになる。

丸山真男『日本の思想』p.13

  これは思想に限った話かは正直わからない。ヨーロッパ思想かぶれの人が日本の思想に回帰したりするように、ヒップホップにはまっていた人が日本舞踊をやりだす、洋楽ばかり聴いていた人がJPOPの良さを「再発見」(=思い出として噴出)したりする、そういう現象のことを言っていると思う。「再発見」、「思い出として噴出」、「回帰」、どのように言ってもよいと思うが、それは引用の言葉から考えれば「意識から消え」て忘却されたものの回帰、なので、無意識に沈んでいたものへの回帰と言い換えてもいいはずだ。忘却されたものが、完全に記憶から消えているとは限らないわけだから。
  僕の疑問点としては、これは日本人固有の問題と言っていいものなのかどうかということだ。他のアジア人にとってはこういうことは起こらないんだろうか。あるいは当のヨーロッパ人も、無神論的な考え方からキリスト教へ回帰する、といったことも考えられるのではないか。
  もう一点、文章のニュアンスとして、「新たなもの、本来異質的なものまでが過去との十全な対決なしにつぎつぎと摂取される」とあるが、そうならざるをえない、ということも考えられないか。「十全な対決なしにつぎつぎと摂取」せざるをえない、という事情があるような気がするのだ。たとえば維新後の日本人に、自分たちの「伝統思想」と欧米から入って来た新思想をじっくり対決させる時間的猶予があったのか。どうなんだろう。
  あるいは現代の日本人が海外からの文物を無節操に摂取しているかどうか。やはり現代も「新たなものの勝利はおどろくほどに早い」時代なのか。そういう面は否定できないような気もしつつ、現代では抵抗したり対決したりしている面もあるような気もする。
  ともあれ、もう一点、丸山が指摘している日本の思想受容に関する性格があるので、それを見ていこう。

雑居的寛容とその限界

  もう一点、丸山が指摘している日本の思想受容に関する性格、それは「精神的雑居性」、「雑居的寛容」である。そう指摘しつつ、丸山はその限界もあわせてこのように言う。

ところがこのように、あらゆる哲学・宗教・学問を――相互に原理的に矛盾するものまで――「無限抱擁」してこれを精神的経歴のなかに「平和共存」させる思想的「寛容」の伝統にとって唯一の異質的なものは、まさにそうした精神的雑居性の原理的否認を要請し、世界経験の論理的および価値的な整序を内面的に強制する思想であった。近代日本においてこうした意味をもって登場したのが、明治のキリスト教であり、大正末期からのマルクス主義にほかならない。つまりキリスト教とマルクス主義は究極的には正反対の立場に立つにもかかわらず、日本の知的風土においてはある共通した精神史的役割をになう運命をもったのである。したがって、両者ともひとしく、もし右のような要請をこの風土と妥協させるならば、すくなくとも精神革命の意味を喪失し、逆にそれを執拗に迫るならば、まさに右のような雑居的寛容の「伝統」のゆえのはげしい不寛容にとりまかれるというディレンマを免れないのである。

丸山真男『日本の思想』p.16

  丸山の言うような「精神的雑居性」「雑居的寛容」がもともと日本の知的風土にあったのだとしたら、元々日本の知的風土というのはどちらかというとリベラルな感じなのかなと思う。ただ、そんなリベラルな雑居的寛容にも限界があることが書かれている。「精神的雑居性の原理的否認を要請し、世界経験の論理的および価値的な整序を内面的に強制する」ような思想、それが例えば明治のキリスト教であり、大正末期からのマルクス主義であった。つまりこういった思想は、その思想の世界観とか価値基準を絶対のものとして、他なるものがあるということを認めることができない。その世界観を絶対視する、そういう思想だ。だからこそ、「精神的雑居性」「雑居的寛容」とは相いれないということになってしまう。具体例としてこの文章で挙げられている二つの思想が、具体的に思想としてどう不寛容だったのかは詳しくないのでわからないが、今で言う、ポリティカルコレクトネスを執拗に追求するような感じだったんだろうか。

  以上、読書ノート①終わり。「思想の伝統化」にむけた下準備、みたいな話でした。

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