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籠の中の優等生と劣等生

前回の続きです。前回はこちらから。

一筋の光があったとすれば、児童養護施設に行く手続きは進められているという児童相談所の職員さんの言葉だった。もう少しこの環境に耐えてみようと、3センチも開かない窓から押し付けるように顔を出し、外を見ながら自分の行く末を信じた。

2ヶ月ほど過ぎた辺りで、1人の子供が脱走した。朝起きて朝食のために整列した時、点呼の人数が合わなかったのだ。職員さんは全員慌てて探しに行った。そもそもとして一次保護所からの脱走は不可能に近い。入所時に私がされたように身ぐるみを剥がされ、全ての持ち物を没収されてしまうのでお金もなければ携帯電話も持っていない。さらに子供たちは常に靴下か裸足で、靴を履くことは外出時以外させてもらえないし、その靴箱にすら鍵がかかっている。それとは真逆に職員さんはいつ何があっても対応できるようにとスニーカーを履き、常に異常がないかを見回り、確認している。トイレに行くことすら許可制であるこの生活の中、よく脱走できたな、と心の中で感心すると共に脱走したくなる気持ちがすごくよくわかった。

結局、その子供は近所の公園に裸足でいるところを警察に呼び止められたらしく連れ戻されてきた。泣きながら戻ってきたその小さな脱走兵は、所長にホールに響き渡るほどこっぴどく叱られた後「反省部屋」という場所に5日間閉じ込められることになった。反省部屋というのは、ホールの壁にピッタリとつく形で勉強机を置き、強制的に椅子に座らせた子供の1メートル四方をパーテーションのようなもので囲んだものだった。パーテーションに鍵はついていないが、無理やり外に出ようものなら、どうなるかは簡単に想像がついた。そのとき勇気ある脱走兵が中で何をしているのかはわからなかったが、その反省部屋の中から鼻を啜りながら小さく泣いている声だけが聞こえた。

後に私も反省部屋に入れられることになる。この劣悪な環境に耐えられず、とある女の子と「おしゃべり」をしてしまったのだ。

寝室には許可を得て予約をすれば1日30分までという制限つきで見ることのできるテレビが置いてあった。テレビはその施設の中ではかなり優秀な娯楽で、テレビがある場所はホールで見回りをする職員さんからの死角に位置しているため、問題を起こさず真面目に過ごしている優等生にしか許されない特別なものだった。それでもおしゃべりをしないように、人との感覚を保つようにという決まりがあるので、テレビは1人で見ることが条件だった。大変人気なその娯楽は、優秀な子供達で毎日予約がいっぱいだった。私は実家で禁止されていたテレビを見たいという気持ちと、外の世界と繋がれる唯一の手段であるテレビで現実逃避をしたい、その一心で優等生を必死に演じた。それとは別に叱られることを極度に恐れていたので、叱られるようなことさえしなければ毎日この劣悪な環境も耐えるだけでいいと思い、派手な行動は取らず目立たないように過ごしていた。そのおかげで1ヶ月を過ぎた辺りから優等生扱いをしてもらえるようになり、寝室もホールから一番遠い場所に移動させてもらえたし、寝る布団も一番窓際というこれまた優等生にしか与えられない場所になっていた。

ある日予約時間になったのでテレビをいつも通り見ていたら、テレビの録画予約の欄に簡単なひらがなだけのメモなら残せるということに気づいてしまった。そして返事が返ってくるかわからないまま、誰かに向けて文字を打ち込んだ。「こんにちは」。返事は来るだろうか。その日はワクワクして眠れなかった。すると3日後、「こんにちは だれ」とその録画欄のメモに気づいた女の子から返事が来た。すぐさま「わたし 〇〇 あなたはだれ」と打ち、次の日に「わたし〇〇 こんにちは」と返事が来た。それは交換日記のような感覚だった。テレビを通して会話ができる!これなら職員さんにバレない!ルールの抜け穴を見つけて毎日一言ずつ会話した。内容は「どこからきたの」「〇〇からだよ あなたは」「わたし〇〇から どうしてここに」「おかあさんになぐられたから」打ち込める文字には限りがあるので、なるべく少ない文字で伝えたいことを的確に伝えるようなやりとりをした。「きょう ごはん まずかった」「まいにちまずい」そんな他愛のないやりとりが、あの時どれだけ私の気持ちを楽にさせたか。3週間程その女の子とやりとりをしていた。

ある日、私とそのやり取りをしていた相手の女の子が所長に呼び出された。「何をしでかしたかわかっているのか!」あの脱走した子供の時のように、ホールに響き渡るほどの声で怒鳴られた。「ごめんなさい」「ごめんなさい」2人で謝った。テレビのメモ欄で会話をしていたのが、他の優等生によって見つけられてしまったのだ。そうして、2人揃って別々の反省部屋に3日入ることになった。食事は反省部屋の中で食べることになり、寝室はホールから一番見えやすい場所に移動され、布団の位置も同じく見えやすい場所に移動されていた。

反省部屋に入って、「どちらかを書き写せ」と言われ大量の原稿用紙と本を2つ手渡された。「ハリーポッターと賢者の石」と「刑法がよくわかる本」。本の厚みがまだ少ない後者を選び、原稿用紙に書写し続けた。当時15歳の私にはとても退屈な内容で、それに厚みが少ない方と言っても文字数が多く気が遠くなった。原稿用紙の隅に落書きをしていると職員さんに見つかり、「まだ反省したりないな?(日数を)伸ばすか?」と言われた。パーテーション越しにランニングから帰ってきた子供達が牛乳を飲んでいる音が聞こえる。泣きながら刑法について書写し続けた。

「座り続けていると体に悪い」と言われ、職員さんにいきなり屋上に連れて行かれ200周も走らされたこともあった。屋上は狭かったので良かったが、ここでの日課である20分の持久走よりもはるかに辛かった。走り終えた後、体力も精神力も落ちていたのでゲロを吐いたら、「根性無し。そんなことだからルールを破るんだな」と吐き捨てるように言われた。

反省部屋を出てからの保護所内は、世界がまるで変わっていた。私は優等生として認められていたはずなのに、信用を失った最低最悪の劣等生として扱われ、常に職員さんの監視が着いて回り、事あるごとに「がっかりだ」「最低だ」などと嫌味を言われた。

それからは毎日失った信用を取り戻すべく必死にまた優等生を演じ続けた。何週間かして、許可を得れば本を読むことくらいは許されるようになった。本棚から暇潰しになりそうな本を探し読んでいると、ある一冊の本に出会った。第二次世界大戦中のアウシュヴィッツ強制収容所の写真集だ。毎日その写真集を広げては、魅入るように眺め続けた。看守にピストルを頭に向けられ殺されるほんの1秒前を切り取った写真や、裸の女性達がガス室で殺された後火葬路から出て黒焦げになった死体の写真、二段ベッドにギチギチに詰め込まれ枕も布団もないような場所で寝そべるガリガリに痩せ細った囚人達の写真。どれも私の心に衝撃を与えた。今考えれば、アウシュヴィッツの囚人を私と重ねてしまったんだと思う。後に興味を持って自分でホロコーストについて調べているうちに、「戦争という過酷な状況下における兵隊達は、自分より辛い境遇に置かれている人間をみると安堵する。その意味でも絶滅収容所は必要だった」とホロコースト関連の本に書いてあった。確かに、あの写真集を見ながら「私より大変な人達がいたんだ」と思うことで安心することがあったので、その一文を読んだときにゾッと鳥肌が立ったのを今でも覚えている。

つづきはこちらから。

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