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歴史・人物伝~新選組上洛編⑤清川八郎に異を唱える

不逞浪士たちから将軍を守ることを目的とし、清川八郎の献策を受けて幕府が組織した浪士組でしたが、清川の真の目的は別でした。京都に着いて間もなく、清川は京都御所(孝明天皇)に建白書を差し出したのです。

建白書は「国のため攘夷に尽力する」と天皇に誓ったもので、「浪士組は幕府ではなく、天皇の命に従う」と公言する狙いがあります。天皇の命であれば倒幕も辞さないとも取れる内容でした。

そのうえで清川は、攘夷決行のため、江戸に引き返すよう求めたのです。浪士組を監督していた幕府の役人は驚愕しましたが、建白書が天皇の目に触れてしまったため、清川の言い分を覆せませんでした。

ところが、清川に決然として異を唱えた者がいたのです。それが芹沢鴨でした。芹沢は「将軍が上洛中なのに江戸へ戻るのは道理に合わない。京でも攘夷はできる」と言い切り、京に残る道を選択しました。

八木、前川邸で芹沢と同宿だった近藤勇ら試衛館のグループも芹沢に同調します。多摩出身の者が多い近藤らにとっては、将軍こそが「仕えるべき主君」だと思っていたに違いありません。

ただ、浪士組の大多数は清川とともに江戸へ引き返してしまいます。残ったのは芹沢、近藤ら10数人。幕府の管轄下から離れる彼らに、助け舟を出したのが京都守護職の会津藩だったのです。

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