歴史・人物伝~エピソード編㊼:徳川家康「命の危機を何度も乗り越えた天下人」
久しぶりに歴史・人物伝エピソード編を書きます。今回は、2023年の大河ドラマ「どうする家康」の主人公・徳川家康について、家康が迎えた「命の危機」にスポットを当ててご紹介します。
家康は、戦国時代の当時としては長命である75歳まで生き、しかも死の直前まで第一線で活躍してきました。家康が天下統一を完成させ、幕府を築けたのは「健康長寿を保ったことが最大の要因」と言われるほどです。
しかし、戦国時代は「生きるか死ぬか」という時代でもあります。家康の場合は、幼少時に織田、今川の人質生活をおくっており、人生のスタートから「命の危機」にさらされていたのです。父親が裏切れば、即座に殺されても仕方ない境遇でした。
今川義元が織田信長に敗れて戦死した桶狭間の合戦が、家康にとっても転機となりました。今川から離れ、三河の領主として戦国大名の道を歩み始めたのです。紆余曲折ありながらも何とか三河統一を果たした家康の前に立ちはだかった武将がいました。
「命の危機」は、その武将・武田信玄との戦いで訪れるのです
戦国大名・徳川家康として初めて、命の危機にさらされた戦いが「三方ケ原の合戦」でした。戦国最強と言われた武田信玄が、家康の居城がある浜松城近くまで大軍を率いて向かってきたのです。劣勢の家康は籠城策を取るつもりでした。
信玄は浜松城を囲もうとはせずに、織田信長の本拠地に近い西へと向かいます。相手に背を向けた形での進軍に、家康は「劣勢でも勝機がある」として、信玄軍の背後を突く野戦を決断し、信長の援軍と共に出陣するのでした。
しかし、老獪な信玄は三方ケ原で家康軍を待ち構え、殲滅作戦に乗り出しました。野戦となれば多勢に無勢ですし、合戦では場数を踏んでいる信玄が一枚上です。援軍を含めた多くの家臣が討ち死にする中で、家康は辛うじて浜松城に逃げ帰りました。
信玄は兵力温存のため、無理して浜松城を攻め落とそうとしなかったため、家康は九死に一生を得た形になりました。この戦いでの反省を後世に残すために描かせたのが、有名な「家康のしかみ像」だったとの逸話が残っています。
次の「命の危機」は、思いもよらない大事件がきっかけとなりました
織田信長の招きで京都や堺の見物に訪れた徳川家康と主な家臣たちは、堺で予想外の事態に直面します。信長・信忠親子が明智光秀に討たれた本能寺の変の勃発です。一度は自刃を口にしますが、家臣の説得で虎口を脱する決断をしました。
家康は京都周辺や東海道を避け、今の京都府南部から三重県方面へと進みます。このルートが後に「神君伊賀越え」と呼ばれるのです。ただ、混乱に乗じて武功を上げようとする者、さらに信長に恨みのある一揆たちら、予期せぬ危険に満ちていました。
途中まで同行していた穴山梅雪(元武田家家臣)は一揆に殺されましたので、家康にも命の危機が及んでいました。おそらく、有能な家臣たちが最大限リスクを回避するよう知恵を絞りまくり、家康の命を守ったのではないでしょうか。
また、伊賀が先祖の地だった服部半蔵(正成)や信長側近の長谷川秀一といった地の利に詳しい人物の存在、さらに豪商の茶屋四郎次郎が逃避行の資金援助をしたことなど、運だけでなく、人脈に恵まれたのも九死に一生を得た要因だと思います。
※今年も「歴史・人物伝」をお読みいただき、ありがとうございました。次回は1月9日に執筆予定で、大河ドラマ「どうする家康」第1回の感想が書けたらと思っています。皆様、よいお年をお迎えください!
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